月明りの狭間には秘密が隠れている

【注意】ほぼ全編モブ視点

ヘクジェラの逢瀬を見ちゃったモブくんの話。間の悪さでかわいそうなことになっている。

第三者視点のヘクジェラが書きたくて特に理由はありませんが書きました。

楽しんで頂けますように!

 陛下はいつも、私の目を見てくださる。
「ありがとう」
 ただ日報を渡すだけのいち政務官の私に、しっかと目を合わせて礼まで言ってくださるのだ。
 だがそこで驕るほど私は身のほど知らずでもないし、年若いわけでもない成人した身なのだからきちんと分をわきまえられる。
 余計なことを言わず同じく笑みを返して頭を下げる。
 許されているのはその程度だ。
 けれど政務官として働く中で、陛下の御身近くに属せることは十分に誇れることでもあった。
 こうして帝国を支える一人となっていく、と思えば自然と背筋が正される。
 その誇りは、己にとって何ものにも変え難い強い強いものだった。
 報告を終えれば陛下の執務室からは早々に辞さねばならない。
 ほぼ毎日見る陛下の姿は私の目に眩しくうつる。
 この方が私の仕える方。
 永劫変わらぬ忠誠を誓う方。
 
 ◇ ◇ ◇
 
 その日はなんでもない日だった。そのはずだった。
 本日の仕事をなんとか終え、宿舎に戻る途中のことである。
 すっかり太陽はその姿を隠し、空では月が笑う頃あいになってしまった。
 普段よりも嵩んだ書類を捌くのに時間を要してしまったことへの微かな苛立ちを胸にやや急ぎ足で道を進む。
 宿舎の夕食は時間が決まっている。それになんとか間に合いたくて焦りとさらなる苛立ちが私の足を普段は行かない方向を向いた。
 ――近道というやつである。
 正しい道ではないからなるべくは使いたくないが仕方がない。腹も減って余計に気が立っているのは明らかだ。早急な解決が望まれる。
 一点、良くない点を挙げるとすれば――茂みの中を進むので足元が非常に不愉快なことになるということだろう。
 そうして進んで行って目標の宿舎が遠くに目に入りほっと息をついた時だった。
 話し声を耳が捉えて即座に足を止める。そのまま咄嗟に近くの背の高い茂みに身を隠した。幸い今は夜、辺りは暗くて見つかり辛いだろう。
(またか)
 うっかり吐き出したいため息を飲み込む。
 以前同じように通った時、男女の諍いに巻き込まれて面倒なことになったのだ。全くの外野の私に「その方が公平だから」と仲裁を頼まれげんなりしたことがある。また同じようなことがあってはひとたまりもない。見つからないよう身を潜め過ぎ去るのを待とう。そのくらいであればきっと夕食の終わりの時間までには間に合うはずだから……と、己に言い聞かせている最中、私は目に入った光景に身を固めた。
(勘弁してくれ)
 どうやらどこぞの恋人たちの逢い引きに遭遇してしまったようだ。宮殿の外壁に押しやっている男と、その腕の中にもう一人いることが男の背に回っている腕で知れてしまった。げんなりとした気持ちが重なっていく。
 しかもどうやら覆い被さっている男はあの傭兵隊長ではなかろうか。目立つ身なりはすぐにその人の当たりを付ける。かすかな月明りの下でもなお目立つ蒼い髪、特徴ある模様のバンダナと立派な体躯。
 傭兵隊長といえば陛下の覚えめでたい男である、と言えよう。何かと重用されているが面白くないという思いを持っているものの方が多いだろう。
(全く、宮殿内でこのような不埒なことを……)
 たとえ屋外だとして、宮殿の敷地内であることには変わりない。この場所は神聖なる政治の中心地かつ皇帝陛下の住まう場でもある。
 だがここで出ていってその不埒を指摘し裁くことを選べなかった。傭兵隊長ヘクターといえば目の前にすればまともに言葉を発せないほどの威圧感のある男だ。そして実際その腕っ節は強い。ただの文官である私では奴の目の前では木っ端も同然だ。
 それにここで出ていったとてやめてくれるか、と考えれば即座に無いだろうという答えに達する。下手をすれば機嫌を損ねて何をされるかわからない。さすがに命は惜しかった。
 私がその場を去る機会を窺っている間にも、揉み合うように抱き合って激しく口付けを交わす二人。耳に届く下品な音の応酬は信じ難いほどのはしたなさだ。
 他人の逢瀬ほど気が萎えることもあるまい。余計にげんなりして早く去るかどうかしてくれと願った時、身を隠した茂みからは数歩先で変わらず濃厚なやりとりを続ける二人の顔が一度離れ――私は見てしまった。
 声を上げなかったのは奇跡のようだ。
(へい、か……?)
 吸い込まれるように目が離せなくなってしまった。
 見間違いかと思った。だが思考は否を唱え続けている。私が仕える方。皇帝陛下の姿をどう見間違えようか。お召し物が変わったとて、髪の色と瞳の色は変わらぬ。それに宮殿にいれば見たことのある質のいい真白い衣装は貴き身分でなければ揃えられない白さだ。肩に掛けられる外套は外しておられるようだが、それでもかの方を指す符号はいくつも合った。
 宮殿の外壁に押し付けられるようにして、だがその手を相手の背に縋るように回して。
 さあ、と月の明かりが木々の合間を通りそのかんばせをはっきりと照らす。顔を縁取るその樺色の豊かな髪もその人を示す。
 ほのかに上気した頬、瞳は目の前しか見ておらず、だらしなく開いた口元は淫靡に月光をてらてらと反射させなまめかしく濡れている。
 唇が微かに動く。名を呼んだのだとすぐわかった。分かってしまった。
 再開される口付けは激しく、絡まる舌と交わされる唾液の交換、声ともつかない声が耳に入って訳がわからなくなる。
 私の中に起こった変化は凄まじいものだった。
 只人では無いはずのこの国の偉大なる星、皇帝陛下の御身が私たちと同じ人の身であるということは理解をし難いほど遠く、遠く離れたものだ。
 だのに、だのに。
 今、自らの目に映る皇帝陛下は、常の清廉な気配を纏わぬ色欲に溺れた青年だった。
 文官である己と違い戦場に立つこともある陛下は私よりも余程男らしい体躯をお持ちで、書類を持つ手はしっかりと筋の立つ男の手だ。
 だというのに、今その筋立った男の手はそれよりも更に男の特徴を色濃く持つ大きく太い指を持った戦士にまるで女のように縋っている。
 普段柔らかに細められるきりりとした目もとは、今はどろりと溶けて目尻を下げ目の前の男に媚を売っている。
 執務室で時折目にする休憩時の優雅に茶を含む口は、今ぽっかりと開いて刺激を求めるよう舌が彷徨い相手とその先を付けあい淫猥に交わっている。
「――ぁ、ぅ……んっ」
 知っていて知らない声が耳を射貫いた。
 私は咄嗟に両手で口を塞ぐ。何かが出ていきそうな気がして。
 その声を合図にしたかのように、傭兵隊長と思しき男がまた覆いかぶさり直接的な交わりを目にすることはなくなった。
 今見えるのは男の背中だけだ。こちらに気付くこともなく、ほんの、数歩先の暗がりで、逢瀬を続ける二人。
 ただその背中の向こう側で今までと同じく、いやより激しく交わされる唇の交合を想像してしまったことで首から上が激しく熱い。
 こんなにも心臓が痛いほど鳴ることがあるとは今日この時になるまで知らなかった。
 ただ、目を逸らすことが出来ないまま私はその場を動かなかった。動けなかった。


 ――それからすぐだったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。
 陛下に覆いかぶさっていた男が丸めていた背を戻し、その身体の向こう側にいる陛下に何かを囁いて肩を抱き歩き出した。
 さく、さく、さく、と地面の草が踏まれる音が段々と遠のく。
 それから一陣の風を頬に感じた時。
 ひゅ、と己の喉が鳴ったのを聞いた。
 まだ心臓は激しく鳴っていて、けれども現実感の薄い間隔のまま固めていた身体がふんにゃりと緩んでいくのがわかる。
 ほんの少しでも動いてしまったら、何が起こるか分からなかった恐ろしさは己で思っていた以上に身体を疲れさせたらしい。
「……は――――……」
 やっと漏れ出た声は頼りなく落ちた。
 片膝を立てて座り込み、額をその立てた膝にぶつけるよう頭を落とす。
 鈍く痛んだ額に現実だという実感をすりこんで、それからやっと空腹を思い出した。
 ああ、もう、夕食には間に合わないだろうか。
 そんなことを思った時だ。
 ダンッ! と己のへたりこんでいた場所の真横に衝撃。
 反射でビクンと身体が縦に伸びるよう揺れる。目にうつったのは脚。屈強な男の脚だ。
「おい」
 頭の真上に声が落ちる。
 ど、ど、ど、ど、遅れて大きな音が己の中で轟いていく。
 なんだこれは。
 なんだ。
 ああ、心臓の音だ。
 ああ、これは。
 恐怖の音だ。
 かた、かた、指が動かせぬ。
 ほんの身じろぎすら恐ろしい。
 顔を上げるなど出来るはずもない。
 今目の前に――己の命を簡単に刈り取ることの出来る猛獣がいる。
 命の危機を察していた。
「聞こえてるな?」
 落ちてきた声は低く、恐ろしい、という感情のみを全身に伝える。
 危険信号ばかりが明滅して、地に座ったまま身じろぎすら出来なかった。
 もう、相手には見つかっているというのに。
「テメーは、何も、見てねえな?」
 ――口外するな、すれば命は無い。
 実際の言葉と、それが示す内容が脳内に重ねて響く。それだけの強制力が男の声にはあった。
 がくがくと頷き恭順を示す。
 自分は何も見ていない、言うつもりも無い、何故なら見ていないのだから。
 すっと血の気が下がる。恐怖からなのか、寒さからなのか、どうして自分が震えているのかもう理由は分からなかった。
 遠ざかる足音、自分のすぐ横にはもう自分を傷つける脚はない。
 だけれども、私は、その場でしばらく動くことが出来なかった。
 生きた心地を取り戻すまで、その場でうずくまるしか出来なかった。
 
 
 ◇ ◇ ◇
 
「……どうかしたのか」
「はい?」
 真実二人きりの部屋の中。逢瀬の続きをいまから、という時にジェラールが真白い敷布に背を預けて呟く。
「来るのが少し遅かっただろう」
「そーですか?」
 その敷布に押し倒した当人であるヘクターは、真下から伸ばされた手を甘んじて受け、やわくその手のひらを噛む。
 くすぐったそうにするジェラールにヘクターはそのまま主人に甘える犬のように肌を歯で愛でた。
 こら、と全く困っていなさそうな声でジェラールはヘクターを窘めるがそんなものはただのじゃれ合いと変わらない。
 気にせず手を進めていけばジェラールもしっかりと応えた。
 衣服を剥いでいく内、ふと、先ほどの政務官を思い出す。
 脅したは良いが、顔を全く覚えていない。
 だが、まあ。
 何か起これば、その起点を探して消せばいいだけだ。
 ヘクターは早々に先ほどの政務官のことを思考の外に追い出して、目の前のジェラールを食むことに集中した。
「ねえ、何かを隠していない?」
 色づいた肢体を晒しながらジェラールはなおも眉尻を下げてヘクターに問う。
 正直に言うつもりがないヘクターはくっくと喉で笑って唇に吸いつく。
 律儀に応えるジェラールの姿に機嫌をよくしながら鼻先同士をひたりと付けてうっそりと笑う。
「いいえ、何も?」

じゅうぶんおとな。