上等な灰皿

【概要】
恐れ多くも誕生日にお祝いとして頂いてしまった絵を元に何かを返せないかと考えて文章で返す暴挙をした現パロへクジェラ。
喫煙描写があります。


 1K、ユニットバス、最寄駅まで徒歩18分。
ベランダ喫煙可。
このご時世で喫煙可能な、手ごろな家賃の物件を探すことは難しい。
だが家で吸えないなど喫煙者にとっては死活問題だ。
生活に根付いているのだから、まず朝起きて一本を吸う……ことすら出来ないのは家賃を払う意味が無い。
そんなことを思いながら、邪魔そうに蒼と茶の混じり合った長い髪を掻き上げて、ヘクターは煙草と銀のライターを手にベランダへ続く窓を開ける。夜の冷えた空気がすうっと室内へ流れ込む。
前回使ったときのまま、部屋の方へ爪先を向けているサンダルを足先で前へ向かせつっかけるとざりざりと足を引きずり歩く。小さく二歩進めば柵へたどり着く程度の小さなベランダへ出ると後ろ手で窓を閉め切り一息ついた。
いつもであれば横着して窓を全開にし部屋の隅に腰を下ろす。「ほぼ外だろ」と言い訳を垂れ煙草に火をつけるところだが……今日この日は客がいる。煙草の煙がひどく苦手らしく、一度そばで吸った時激しくせき込んでいた。さすがにそこまで拒否反応が出るのであれば家主であろうと関係なく、きちんとお行儀よくベランダに出たというわけだ。どうせ吸うなら気兼ねない方が良い。
箱を開け一本取り出しフィルターを噛む。流れるようなしみついた動作で片手を捻れば金属音を鳴らしライターのキャップが外れ、すぐホイールへ親指を滑らせた。オイルの匂いとともにゆらり揺らめく炎が上がる。咥えた煙草の先を近づけたったの一息吸い込めば、みるみるうちに巻紙と煙草が燃え、ジ、と火が移る。
夜の空を背景に、その瞬間だけぱっと明るさを灯して顔を照らし、すぐに煙草の先の小さな火の明かりだけになる。
また金属音を高く立てライターのキャップを戻して煙草の箱と一緒にジーンズのポケットへねじ込んだ。
火付けのひと吸いを深く吸い込み細く口から煙を吐きながら、ベランダの外の景色へ視線が移った。
駅からは遠い住宅街。とは言っても都心に近い方であるからか、ベランダからの情景は微かにネオンのきらめきを映す。
春の気配のあった日中だったが、夜になれば思い出したように冬の空気になっていた。
たまたま近くにあったからと上着を羽織って出てきたが正解だったようだ。
右手の人差し指と親指でフィルターを掴みまたひと吸い。燃え尽き灰になった先端をベランダに放置している缶灰皿にトンと軽く落とす。
それからいつもと同じように柵へ肘をつき凭れかかる。煙草を手にした右手がだらりと外側に垂れ、燃え続けて紫煙を燻らせた。
煙草を吸っている間は無心になる。
ただ虚空を眺めながら、煙草を吸いこみ、吐き出す。
それだけの時間になる。
だが、それが、やめられないのだ。
五分もしないうちに一本目が終わり灰皿に押し付け手を離す。
暫く吸えないだろうからと二本目に火をつけた途端背後でカラカラと音がする。
訝し気に眉尻を吊り上げ、ベランダの柵へ肘をつき寄りかかったままヘクターが顔だけで振り向くと、部屋の明かりに照らされてジェラールがこちらを見ていた。
「ヘクター」
ぱっと花開くよう笑った顔が、暗くても良く見えた。
反対にヘクターはげんなりと顔を歪める。
(――意味ねえじゃねえか)
「ここに居たんだな。姿が見えなくなったので探していたんだ」
窓を開けたまま上半身だけをベランダ側へ乗り出して声を弾ませている。
「……煙、部屋に入るんで閉めてください」
「ああそうか、この家は室内禁煙だったな」
こん、とひとつ小さな咳が漏れる。
言わんこっちゃ無い。
ヘクターにしては遠まわしに来るなと言ったつもりだが、ジェラールは視線をベランダの床に落としている。何かを探してきょろきょろと見回し、それからヘクターを見上げて来た。
「……ここには、履物はそれしか無いのだな」
深く深く煙草を吸い長く長く吐き出す。
「ええそうですよ、だから諦めて中で待っててくださいね」
「仕方がないな」
ジェラールの諦めたらしい声を聞き、それから窓の閉じる音がして、ヘクターはやっと視線を外へ戻す。
が、いくらもしないうちにまた窓の開く音がして振り向けば、満面の笑顔のジェラールが自分の靴をわざわざ玄関から持ち込んでいそいそとヘクターの右隣へ並んだ。
「面倒だったがいくらもない距離だしな」
ふふ、と笑った顔はどこか誇らしげだ。
「私を避けようとしただろう? だから君の隣に意地でも行かなければと思って」
「なんでそこで意地になるんですか……避けてませんよ。あんた煙草の煙が駄目でしょうが。俺なりの気遣いですよ、き・づ・か・い」
「私のためか」
「そうですけど」
「そうか」
嬉し気に言うのでヘクターの調子は狂いっぱなしだ。柄にもない言葉が口から零れていく。
が、その時にへくちゅ、と随分可愛らしいくしゃみを耳が拾う。
鼻を指先で摩っている姿を次に目にして数秒後、煙草のフィルターを噛み両手をあけると無言で肩に羽織っていたジャケットを剥いだ。その流れのままジェラールの肩にかける。
「いやこれは君の」
「いいですから」
返そうとするジェラールを片手で制しもう片手で口から煙草を取る。
「だが君! 半袖じゃないか! それでは寒いだろうから」
「いいっつってんでしょうが」
たったそれだけで押し付けて、無駄に燃えてしまった煙草の灰を灰皿へ落としまた一息吸い込む。一旦止まった呼吸が、次には煙となって細く長くジェラールのいる方向へと伸びていく。
「……ありがとう」
囁かれた礼と、かすかな咳き込み。
居心地が妙に悪くなる。自分の家で、わざわざ外へ出て煙を吸わせないようにしたというのにその人物自体がここへ来て、しかしヘクターの煙に今咳き込んでいる。嫌がらせをしているわけでは無いが咳き込ませていることに妙に腹が立つ。
ちらと横を見、風にあおられてジェラールの方へ流れ続ける煙に小さくむせる姿に悪戯心が首をもたげた。
左手に持ち替えた煙草をひと吸い。
空いた右手を隣に伸ばしジェラールの後頭部に添え引き寄せた。
引き寄せられた側のジェラールは驚いて目を見開いた。
ヘクターは口の端から煙をちらつかせジェラールと顔を見合わせる。
一瞬だけ揺れた瞳に胸がすく思いがした。
顔を傾け近づくそれはキスの前動作と同じ。
「あ」
それからヘクターは――思い切りジェラールの顔目掛けて口内で燻っていた煙を吹き付けた。
突然の蛮行にジェラールは目をぎゅうと瞑り激しく咳き込み、守るように袖口を口元へ押し付けている。
「さっきも言いましたけど」
後頭部を拘束していた右手をぱっと離して口元に煙草を戻すとうまそうにまたひと吸い。
「あんたこれ苦手なんでしょう」
ひらりと煙草を持つ左手を掲げる。
煙を吐き出しながら悪びれもせずにヘクターが意地悪く顔を歪めていれば、吹きかけられた紫煙の向こう、ジェラールが激しく咳き込みながら涙の沸き上がった目できつく睨み上げる。
「っ、げほ、ッきみ、」
「キスされると思いました?」
今度は分かりやすく赤みの強くなった頬で咳を忘れヘクターを見上げるジェラールの姿に、妙な満足感を得る。
「これに懲りたら俺が吸ってる時に寄ってこない方が良いですよ」
勝ち誇った顔のヘクターを前にジェラールは何か言いたげに口を開くがそこから出たのは咳で、変わらず睨み続けているが収まらずうまく言葉を紡げていない。
その間にもヘクターはどこ吹く風で煙草を吸い続ける。
なんとか収めようと己の袖口を口へ押し付たジェラールが、絞り出すように放った言葉は。
「……私は灰皿じゃあないぞ」
悔し気に、しかし涙目は直っていない。
「ハ!」
たまらずヘクターは笑い声を上げくしゃっと顔面を笑顔でゆがめるとそのまま最後のひと吸いをしてベランダの柵の向こう側へ煙を吐き出し流れるように灰皿へ吸い殻を押し付ける。
「こんな上等な灰皿、あってたまるか」
先ほど離したばかりの後頭部へ再び手を伸ばし今度は途中で止めてやらない。
近づいていく距離にジェラールが目を見開いている。
ヘクターは笑った。
「へく、」
彼の彼を呼ぶ声は、ヤニの匂いと燻った煙の匂いをさせる唇に吸い込まれていった。

 了

じゅうぶんおとな。