宮廷画家の弟子
「……なんと、うつくしいのだろう」
そうつぶやいた青年は、自分が言葉を発したことにも気付かずに必死に手を動かしていた。
恋に浮かされたようなうつろな瞳で遠くを見ながら近くを見ている。
動き続ける彼の手は素早く、その手元に遠くを見ている瞳に移るうつくしいひとを描き続ける。
彼がその目にいま夢中になっているうつくしいひとを写しているのは直に、現在のことではない。
彼の師匠である宮廷画家が仕事をしている場所へ幸運にも助手として伴わせて貰えた場所で見た尊いお方の姿を記憶の中で見つめているのだ。
やっと一人の時間になった今、一秒でも早く筆を走らせたかった彼は自由に立ち入りが出来る中庭のベンチで夢中になって手を動かし続けていた。
だが次の瞬間には彼は何故自室へと戻ってからにしなかったのかと後悔した。
神のきまぐれか妖精のいたずらか、急な突風が彼を襲った。
その風はあろうことか彼が今描きとめていた紙片たちをあらぬ方向へと飛ばしていく。
「ま、待て!」
慌てて飛んでいってしまった紙片を集めに、宮廷画家の弟子は走った。
(見つかってしまう訳にはいかない! こんなものが見つかってしまったら!)
焦りはそのまま走るしぐさにも現れ、倒れそうなほど前のめりになりながらも一つ、二つと紙片を拾っていく。
すぐに動いたことも功を奏し彼の手には紙片が順調に集まっていき、なんとか最後の一片を見つけ安堵の息をつく。
安心して拾おうとした刹那。
「あ? なんだこれ」
彼の手が届くよりも先に、招かれざる客が紙片を手にしてしまった。
さっと顔を青くした宮廷画家の弟子は思わず「あ」と声を零れさせてしまう。
招かれざる客は、見上げるほどに大きな背丈の青と茶の色を混ぜた目を引く髪を持つ男であった。
「……ジェラール様?」
その男の口から尊いお方の名前がこぼれ落ちる。
そう、今まで宮廷画家の弟子は皇帝陛下をひたすらに描きとめていた。
おいそれと描くことの許されない尊いお方を、あろうことか紙片いっぱいに……しかも威厳とは遠く離れた姿ばかりを描いていた。
彼がうつくしいと思ったのは、剣を手に勇ましく笑んでいる皇帝陛下ではなく、師匠である宮廷画家と会話している時に浮かべたこちらの心を溶かすような柔らかく優しい笑みだったから。
不敬だと怒られてしまう、むしろこの命だけで足りるだろうか、師匠や家族にまで飛び火しないだろうか、思考だけがぐるぐると高速で回っていく。
だが、次に彼の耳に届いた言葉は意外や意外のものだった。
「へえ、うめーじゃねえか、お前。あの形式ばった絵よりよほどあのひとらしい」
ぐるぐると回り続けていた思考が完全に止まる。
そこでやっと、目の前の紙片を拾い上げた人物がある意味で有名な傭兵隊長だということに気づいて別の意味で体を硬くした。
滅法腕っぷしの立つ戦士で、しかし画家の卵である彼には理解が及ばぬほどに喧嘩っ早く話を聞かないと耳にしたことがある。
その容姿は皇帝に仕えている身でありながら派手で自由な服装、装飾をして、青の髪が目立つ男だと。今目の前にいる男と特徴が一致している。
なお情報源は傭兵隊長の部下だと称する人物がそう語っていたのを酒場で斜め聞きした宮廷画家の兄弟子である。
「……不敬だと、責めは、ないのですか?」
「ああ? だったら俺が一番に首を飛ばされてるっての。別にいいだろ、お前は絵を描くのが仕事なんだろ? 別に怒られることじゃねーだろ」
「……よろしいのですか?」
「俺に聞くな。描きたきゃ描く、それだけじゃねーのか」
「ありがとうございます!」
がばり、と音がしそうな程に勢いを付けて頭を下げた。
「うるせーな礼を言われるようなこと言ってねーぞ」
目の前の傭兵隊長はそう言うが、宮廷画家の弟子にしてみれば言葉そのままの意味で首が飛ぶ危うさもあったのだ、声の大きさも膨れてしまうのは許してほしい。
「――ああ、でも、お前の絵は、俺は好きだぜ」
「は」
「なあ、それ、貰ってもいいか」
「え?」
「多分あのひとが気に入る。よっぽどあのひとらしいぜ。なあ、くれよ」
「……はい、はい!」
傭兵隊長の言う〝あのひと〟がどのお方を指しているのか嫌でも分かった。全身があり得ないほどの誉を喜び震えている。
差し出す指は細かに揺れた。こんなことがあっていいのか、ああ、この拙い手のものを、皇帝陛下に献上することになるなんて!
はた、と途中まで差し出していた手が止まる。
そう、そうなのだ。この今手渡そうとしている絵は走り書きのスケッチで、とても尊いお方の目に触れさせて良いものではない。
「なんだ、やっぱりだめか」
「いえ! そうではないのです! ただ! ただこのような、拙い手をお見せするのはあまりにも申し訳がなく……」
「なんだ、そんなことか」
そんなこと? 画家の卵とはいえその道を目指すものになんたる言葉!
「お前が渡したくないならまあそれでもいいけどよ、ただ俺は、ジェラール様のその顔を描いた絵があってもいいって思っただけだ。お前の描いたそれは、俺が良く知ってるジェラール様の顔をしてる」
宮廷画家の弟子はぽかん、と口を開けて固まった。
いま、この目の前の屈強な戦士は、自分の拙い手をなんと評してくれたのだ?
全身が熱くなる。まだまだ腕は未熟で叱られてばかり。満足に描くことも許されず、決して多いとは言い難い賃金を削ってやっと手に入れた紙と筆でただ線を走らせただけの……いいや、あの姿を目にしてしまったら、手を動かさずにはいられなかった。考えるよりも先に手が描きたがった。師匠が言っていた「描かずにはいられない引力」とはこういうことなのかと。皇帝陛下のその姿をみてえらく納得した。
気づけば止まっていた手は動き出し差し出していた。
「ありがとよ」
片手でぞんざいに受け取った傭兵隊長は、しかしその手元へ視線を落とし愛おし気に目を細めていた。
その光景は宮廷画家の弟子にまた紙に筆をいますぐに走らせたい衝動を届けていた。
描きたい、描きたい、描きたい。
世界は、うつくしいもので溢れている。