賢帝ジェラールの肖像

 バレンヌ共和国 首都アバロンにて

 数百年後の少女たち

帝国博物館はバレンヌ帝国最後の皇帝が帝国の歴史を後世に伝えるべく建造したものだ。
広く一般に公開されるようになっていくばくか。
休日は人が溢れかえる程に人気の場所である。
博物館を入ってすぐ、一番初めの間には数百年前に描かれた、バレンヌ帝国第三十一代皇帝〝賢帝〟ジェラールの肖像が掲げてある。
この肖像について歴史家に聞けば十人中十人が帝国史を語る上ではまず外すことの出来ない人物であると口を揃えるだろう。
その隣にはバレンヌ帝国の歴史が年表で示されており最後の皇帝の願いの通り、後世に歴史を伝える場として機能していた。
その〝賢帝ジェラールの肖像〟の前で、二人の少女が声を潜めながらも姦しく、肖像について語っている。高い声は十代の、まだ花開く前のみずみずしさを伝えてくる。
「なんて立派なお姿……って、おばあ様はいつも声を華やがせていたわ」
「私の所もそうよ。帝国の時代を知っている方々は皇帝陛下をとても尊敬していらっしゃるけど、やっぱりあまり実感は無いのよね」
ころころ、くすくすと楽しげに話し合う彼女らは、しかし隣からの視線にはっと気づいて顔を見合わせる。
じろり、と隣の紳士に視線を寄越され、二人の少女は口に手を当てそそくさと肖像の前を通り過ぎた。
「……あら?」
やや急いで出た〝賢帝ジェラールの肖像〟の間の続きの間には、歴代の皇帝が使用していたとされる茶器や調度品、宮廷画家に描かせたまた別の肖像画が続いている。
だが少女が声を上げたのは、そうそうたる展示品とはやや毛色の違う……言ってしまえば小汚いものが目に留まったからであった。
その小汚いものはどうやら画用紙で、スケッチだとわかる未完成品だった。
しかしそこに描かれていたのは、先ほど見た賢帝ジェラールの顔と同じであった。
全くの同一、というわけではない。肖像画と比べれば、その人物の特徴は同じでも、まるでそのあたりにいるただの青年のような顔で描かれているのだった。
宮廷画家の肖像画のためのラフスケッチだろうか。
けれども肖像画のような勇ましさや逞しさ高貴さはなりを顰めていることから別の目的で描かれたものだと窺い知れる。
「これは……ジェラール陛下、なのかしら?」
「特徴はよく似ているわよね?」
「なんだかとても良い笑顔。私、この絵が好きだわ」
「でも先ほどの肖像より……なんだか、こう、ねえ?」
「見比べてみましょうか」
「良いアイディアだわ!」
不思議な歴史のほころびに、少女二人は順路を遡り最初の間へと移動する。
ひとつのライトに照らされて、若き賢帝が剣を手に笑んでいる。
ちょうど人の波が切れ、始まりの皇帝の間は少女ふたりの他は数えるほどしか人影は無くなった。
近づくことを制限するために立てられた艶やかな組紐の向こう側、引き立たせるようにあわくひとつの光でのみ照らされた賢帝ジェラールの肖像。
正面に立ち背筋を伸ばし、まるでその人本人と向き合うかのように目が合った。
ほう、とため息が零れる。
「……やっぱり見比べてみれば私はこちらの勇壮な陛下のお姿が好ましいわ。帝国を率いた方だもの、それにこのお顔は大変な美男子よ」
「あら、こういったお顔がお好み?」
「そうね、お顔ももちろんだけど……頼もしくて、勇ましくて、立派なお姿をなさっているわ。これぞ帝国皇帝というお姿ではなくって?」
その言葉と共に、彼女は肖像画を指差した。
導かれるようにまた目の前の皇帝と目が合う。
遥か昔、戦いの詩の紡がれ初め、この皇帝が今に続く道を敷き始めたのだという。
この姿が好きだと言った彼女の言葉にもう一人の少女も頷く。
見れば見るほどに、どれほどに立派で、素晴らしい皇帝だったのかと伝わってくるような、とても、とても、頼り甲斐のある姿。
――でも。
「私は……あちらで見た陛下の方が、人らしくて好ましいわ」
「雲の上の方なのに、人らしいなんておかしいわね」
「皇帝陛下だって人間よ」
そう言って彼女の視線は続きの間に向かう。先ほど見た色あせた、しかし筆致の柔らかさ、豊かな表情が読み取れる絵がそこにはある。
数百年経た今でも絵を見ることが出来るということは、よほど大切にされていたのか……持ち主の愛情を窺い知れるようで顔がほころんだ。
「あなた随分と想像力が逞しいのねえ」
「あら、歴史に残る皇帝陛下とはいえもう今はこうして絵でしかそのお姿を知ることは出来ないわ。どちらが本当の姿か想像するしか出来ないじゃない」
「どちらも本当とは言えないの?」
「……それも、そうね」
その時、彼女らの頭上に響く鐘の音が聞こえる。
思いのほか多くの時間を同じ場所で過ごしていることに気づいた二人は止めていた足を再び動かし始める。
そうして彼女たちは肖像の前から一歩一歩と遠ざかる。声を潜めながらも次の展示物を目に移し過去に思いを馳せながらも現在を歩んでいく。
彼女たちが歩む現在。彼女たちだけではない、数多の人が歩むその道は古の英雄たちが築いた道。
近づくことを制限するために立てられた艶やかな臙脂色の組紐、その向こう側。
この道を敷いたひとりの皇帝が、遙か昔に微笑んだ姿を映しとられ勇ましく佇んでいる。

じゅうぶんおとな。