賢帝ジェラールの肖像

  千年後の歴史学者

資料を捲る音のみが室内にこだまする。
劣化を防ぐために室温、照明が管理された部屋で手袋をはめやっと閲覧することの出来る貴重な資料。
申請に申請を重ねてやっと得た機会に、まるで恋に浮かれたもののように胸を高鳴らせ一文字でも漏らさぬよう目を凝らす。
現在は共和国となり長い年月が過ぎたこの国で歴史学者として生きる男はただ真摯に歴史の証人たる資料たちと一方的な対話をする。
ごく最近の彼の興味は千年も前、この国が帝国であった時代の一人の人物である。
そう興味の先を示せば、名前が挙がるのはかの〝賢帝〟ジェラールやその父帝レオン、はたまた七英雄たちであろう。
だが、違う。彼の興味の先は〝ヘクター〟という名の傭兵隊長、であったらしい人物のことだ。
それを口にすれば皆一様に首を傾げ誰なのかと問うことが殆どだ。
千年前の時代を研究するものであれば「名は確かに目にしたことはあるが」という答えが返ってくることもあるだろう。
それもそのはずで、〝ヘクター〟という名の傭兵隊長は賢帝の記述がある場合によく目にするが、どのような功績を残したのか、どのような人物であったのか、どのような立ち位置であったのか、判然とする資料がほとんど残されていない謎の多い人物、であった。
そのような歴史の向こうの人物など数えきれないほどいる。むしろそういった名も無い人間の方が多いだろう。古い時代であれば尚更だ。
だが、その時代より千年が経った現在の歴史学者である彼はどうしても〝ヘクター〟という名の傭兵隊長が気にかかった。
元はと言えば彼も賢帝の研究をしている大勢の内の一人であった。
取り立てて目立つ功績は無い。有象無象の内の一人。
だが彼は誰よりも実直で、資料の海に喜んで飛び込み、寝食を忘れ日が昇る朝も星の輝く夜も関係なく倒れるまでその海を大いに泳ぎ回った。
結果的に彼の脳には幾千幾万の資料の内容が刻まれこれまでにつながらなかったものにつながることになった。
それが、〝ヘクター〟であった。
一つ一つ、重複するような内容もすべてきちんと目を通していくうちに、重なる名前がいくつもいくつも登場することに気づいた。
気づいてから片っ端から資料をひっくり返し確認する。
ここにも、ここにも、こちらにだって。
気づいてみれば、なぜ今まで何も気づかなかったのかが不思議なほどに賢帝の名の隣に〝ヘクター〟は存在していた。
それは運命とも偶然とも言えた。
彼だけが特別なことをしていたわけでは無い。
同じようなことをする人間が全くいないとは言わない。
歴史学者と名乗るものが殺到する人気のある時代であるからその人員も他に比べれば多く、同じように朝も夜もなく寝食を忘れ資料の波間を泳ぐ人間もいただろう。
ただ、彼が、気づいて、その人物を知りたいと思ったことが歴史の波間の向こう側へ至ることになったきっかけだ。
そして今日も。
研究室に舞い込んだ新規資料の情報を手にしたのはいつだったか。同じく所属する人間からもたらされた一報に歓喜したことを昨日のことのように覚えている。
それを目にすることを願って閲覧申請をすぐに行ったが突っ返される申請書に歯噛みしたのは一度や二度ではない。
貴重な新規資料、まだまだ下っ端の彼の手が触れることも目にすることも叶わなかった。
周りが時が来るのを待つ方が早いのではないかと思って申請を見送っても彼は諦めることなく申請に申請を重ねた。根負けしたのはあちら側だった。
ここに至るまでの道のりを思い出していた彼は止まっていた手を再び動かす。
どうやらこれはなんとも驚くことに、賢帝の日記であるらしかった。
あやふやであった部分もある、賢帝の時代の詳細な出来事の時系列順での、しかも整えられたものではない物だからこその貴重な記述も散見された。
(だからこんなに出し渋られたというわけか)
マスクの下で唇を舐める。
これは界隈に激震が走ることは間違いないだろう、と確信しながら、やはり記述の多いヘクターの名に期待が高まる。
今までに無いほど頻出するその名前と誰もが知っている戦でのヘクターの活躍を知り、否が応でも興奮を抑えられない。
メモをする手が止まらない。気になっていた部分の答えが全て! 今目の前にあった。
記された整った文字一つ一つが、彼にとっては全て金色に輝くように素晴らしいものだった。
そしてついに最後のページに行き着き表紙を閉じる。
ありえない充足感を胸にひとつ大きな吐息をついて、手が止まった。
メインとして認識していた本にばかり気を取られ、他にもある一枚資料に気づいたのだ。
それらが収められている方へ身を乗り出し……時が止まったかのような心地になる。
メモ書きと共に、折シワのある一枚の紙が広げられ透明の保存用の袋に入っている。
それに手を伸ばすが、分かりやすく震えていた。
震えもする。
呼吸すら忘れた。
目を、見開くことしか出来ない。
そこには一人の男が描かれていた。
メモ書きにはこうある。
『——帝国暦一〇■四年、■の月、晴れ の記述のある83ページ目 折り畳まれた状態で発見』
該当のページを慎重に、しかし焦りを伴って開く。確かに紙同士の擦れで起きただろう染みが残っている。
視線が忙しなく右へ、左へ動き見比べる。
ラフスケッチだろう、肖像画の元絵になったものかもしれない。
色は無い。だが。
「……あなたが?」
語りかけずにはいられなかった。
かの賢帝ジェラールの肖像と同じく、きっと彼の愛剣だろう身幅の広い立派な剣を地に突き刺し柄頭の上に両手を置いて堂々と立っている。こちらを見てにやりと笑う、癖のある長髪を流し、エキゾチックな模様のバンダナを巻き、不思議な片目の盾眼鏡アイシールドをしている……美々しい男。
この絵が挟まれていたページの日記を読む。

――今日は以前断られた肖像画を描くことをやっと許可してもらえたのでヘクターの気が変わらぬうちに大急ぎで場を整えた。
こんなに楽しいことはない。
いつも……彼も私が描かれているときこのような気持ちなのだろうか?
やはり思った通り、勇壮な姿はきっと見たものを鼓舞する素晴らしいものになるだろう。
以前私を描いたものを呼んだが正解だったようだ。彼の筆は内面ごと映し出すように実に表情が良い。
だけれども、この絵が完成したら……人目の付くところに置くことが、惜しくなってしまった。
いや、まだ、完成はかなり先になるだろうが。
狭量でいけないな。ヘクターには知られたくない。

文面から察するに、やはり、この男が〝ヘクター〟なのだろう。随分と親しい間柄だったことはこの日の記述だけでなくにじみ出ていたことを思い出す。一度目に読んだ時は気付かなかったが、この時に絵師にラフスケッチをもらっていたのだろうか。そしてそれをそのまま挟んで?
憶測が頭の中で溢れて仕方がない。収拾の付かないそれに頭を振る。憶測は憶測でしかない。研究のとっかかりにはしても、それを元にしては研究とは遠ざかる。
また向かい合う。姿を見られたことに感動して入ってこなかった情報がまた新たに脳に流れ込んでくるようだ。鋭いまなざし、恵まれた体格、正しく戦士の指先。
天井を仰いで、力強く目を瞑る。
……これまでのヘクターという名の傭兵隊長は、きちんと存在を裏付ける資料が何ひとつなかった。
残っている資料には確定させるだけの力は無くあくまでも〝存在していた可能性が高い〟と表すことしか出来なかった。
けれども今、この資料でやっと、その存在に一つ確かなものが加わった。
この資料の有効性が認められれば、〝この男は存在していた〟ということを言い切れる。
少なくともこれを目にした歴史学者である彼にはヘクターという傭兵隊長の姿が文字から姿へと変化し立ち上がった気持ちを抱いた。
遠くから心音が近づいてくる。
興奮が、徐々に徐々に大きくなる。
叫びたかった、しかし喉から出たのは掠れた何かの音。
代わりに己の胸を鷲掴んだ。
心臓がこれが現実だと訴えるように強く、強く跳ねていた。
(どうすれば、いい? ああ、どうしたら)
ひとまず彼は、普段は全く信じていない神に祈りを捧げるくらいには、この出会いに感謝を、心の底から、人生で初めて、捧げた。

 ◇ ◇ ◇

翌日、歴史学者の彼はひとりアバロン国立博物館に立っていた。
昨日はあの衝撃から逃れることが困難で、自分自身でもどれほどあのラフスケッチだけを眺めていたのか判然としない。
それまでに取っていたメモはぴたりと止まり、食い入るように見つめることしか出来なくなっていた。
約束されていた時間が過ぎて追い出された後も、彼はとても現世にいるとは思ないまま、マシュマロの上でも歩いている気持ちで帰路についた。むしろ無事に家に帰り着いたことを奇跡とすら言ってもいい。それほどに怪しい足取りだった。
そして一日が経ったこの日も……つまり一度寝て起きたが結局夢のような心地からは抜け出せなかった。
その夢心地のまま、彼は彼のはじまりの場所へ立った。すなわちアバロン国立博物館へと。
白い壁が一面に横に伸びるクラシカルな建物に入り入場口で年間パスポートを見せすぐ右手へ。そうすれば、ひと息に入場者は歴史の波間へ引き込まれる。
薄暗い館内、中央に守られるように掲げられる一枚の肖像画。
ガラスの向こう側で、立派な黄金きんの樹木を思わせる意匠のデコラティブな額縁に収まった、バレンヌ帝国第三十一代皇帝〝賢帝〟ジェラールの肖像が迎えてくれる。
(……お久しぶりですね、ジェラール帝)
平日の昼間、ほとんど人の出入りはない。
誰の邪魔にもならず、誰にも邪魔されることもなく、彼は彼のはじまりとなった肖像画に心のうちで話かける。
(昨日、やっとあなたの近くにいた戦士を見ましたよ。あなたの日記にありました。随分と活躍目覚ましい人だったみたいですね)
資料を思い出しながら、彼の目には今目の前にある肖像画の横に確かに佇む戦士が写っていた。
(記述が全て本当なら、あなたに勝るとも劣らない英雄だったのではないですか? どうして今彼のことが伝わっていないのか、おれは不思議でならない。あなたのことは、そして歴代の皇帝たちも、その名と功績が残っているのに)
それこそ、賢帝ジェラールの話は幼い頃から絵本でも、アニメーションでも、映画でも、歌劇でも、大衆の好む英雄譚として有名だ。名前は今でも縁起の良い名付けとして用いられるほどに。
ふ、と。
ああ、と声ともつかない何かが口からこぼれる。
「……物語を、書いてみればいいのか」
言葉にすると、ひどく陳腐に思え、けれど同時に何かが胸に灯った心地がした。
以前別の歴史学者が「これが自分の研究方法の一端だ」と豪語していた歴史小説。
物語として楽しむことは出来るが、研究方法の一端、と言われると同意しかねると思っていた。
しかしその小説は多くの一般の人間に歴史への興味を持たせた。
その点に関して彼は一定の評価をしていた。
今になってわかる。こういうことなのか、と。
自分だけが知る、歴史の向こう側にいる、存在していたのかすら判然としない誰か。
だが、証拠足り得ずとも居たと言う記述が残る男。
知ってほしい。昔、遥か昔に戦い、生きた男のことを。そして何より自分自身が知りたいと渇望する。
彼の脳裏に走る絵がある。それは今目の前にある。
〝賢帝ジェラールの肖像〟。
——まだ学生の時分、アバロン国立博物館で目にした〝賢帝ジェラールの肖像〟が彼を歴史の海へと一番初めに誘った資料だった。
肖像画を目にして、絵画の道を見出すのではなく歴史の成り立ちに目を向かせるものは少数かもしれない。
だが彼にとってはあの肖像画との出会い、続く歴史の成り立ちにひどく惹かれた。あれは恋に似た熱を持っていた。それは今も。
そして今夢をかなえ歴史学者となった彼を魅了した、あの賢帝の肖像の一歩後ろに……はたまた隣に、立っていたかもしれない戦士を見ている。
賢帝の名に寄り添うように登場する、傭兵隊長の名が示すように。
もし、もしも。
この先に紡ぐ物語が、いつか誰かの心に触れて、自分が死した後にも彼のことを知りたいと願う人間が出てきてくれるかもしれない。自分にとっての〝賢帝ジェラールの肖像〟のように。歴史の向こう側へ渡りたいと願う、人間が。
壮大な夢に身震いした。
進むことが恐ろしい。
だが、もう、進むことに決めてしまった。
だって彼にはもう、見えている。
千年の時を経て、立ち上がる戦士の姿が。
彼の手で現代に蘇る。それはなんとも甘美な誘いに思えた。

うるわしきアバロンに、賢帝へ侍った戦士が時を超えまたこの街を守護するのだ。
千年の昔も、そして今も。

数年後、一冊の本が出る。
手にした重みに知らずひとつ、息をつく男が一人。
「おれの書くあなたは、あなた自身のことをどう評してくれるんだろうね」

――ガラじゃねーよ。

響いた声を聞くものはいなかった。

じゅうぶんおとな。