「……今なんて言いました?」
以前に肌を合わせてからまた幾つもの月を星を見送って、満月の輝く本日。
ついに整った夜にジェラールはため込んでいた言葉を投げかけた。
「だから……その。……く、してほしい、と……」
「あー、今度は聞こえねえ、です」
ぐ、と口元を強く噛み締めて、ジェラールは覚悟を決める。
「……今日はひどくしてくれと言った」
「……物足りないからもっと、っていう話ですか?」
「いや! そうではなく! もうかなり十分ではあるが!」
急に自分のことに水を向けられてジェラールは一段大きな声で否定を放ちその声の大きさに驚いて慌てて口元を手のひらで押さえた。
「ほー。十分なんですか」
「忘れてくれ!」
「嫌ですよ、お褒めに預かり光栄ですよ」
「……なぜ機嫌を良くしているんだ」
「さてね?」
燭台の蝋燭が柔らかな光を灯す室内、ここには二人しかいない。
飴色の軸足に夜空のような深い紺色を纏った寝椅子で隙間無く隣り合って座る二人の表情は対照的だった。
にやにや、という効果音がぴたりとはまる顔で鼻歌でも歌い出しそうなヘクターと、眉間に皺を寄せて苦々しく壁を見ているジェラール。
「また何か、一人で勝手に思い悩んでますね」
ふ、と年上の顔で笑ったヘクターにジェラールはより一層眉間に皺を寄せる。
「……子ども扱いをしないでくれ」
「してませんよ。ただあんたが……いや、やめときます。機嫌損ねたくないんで」
「損ねるようなことを考えているということか」
「今日は随分とご機嫌が麗しくないご様子ですね」
「そんなことは、ない」
「じゃ、そういうことにしときましょう」
ヘクターはそっぽを向くジェラールの肩を抱き寄せる。さらに二人の距離は縮まり触れあった腕が体温を分け合う。
「それで?」
いつもよりは強引さを持って、ヘクターはジェラールの顎を取り強制的に視線を合わせに来た。
「どうして俺に〝ひどく抱け〟と言うんです?」
改めて自分ではなく相手に声に出して問いかけられると羞恥が煽られた。
なんてことを言ってしまったのかと後悔が色濃くなる。
言葉に詰まり、上手く舌が回らない。声の出し方を忘れたように、理由を話す術が分からなくなる。
「明日の予定をまっさらにしてきたのだけど」
「は?」
ジェラールは結局、この自分の中に渦巻く感情が何を示しているのかが分からなくて、だから事実を話すことにした。
急に明日の予定など口にしたものだから、ヘクターの返答とも言えない声は雄弁にわけがわからない、と語っていた。
「つまり私はきみに抱かれるために、明日どうなっていてもいいように、してきた、のだけど」
「ジェラール、様?」
「ねえヘクター。きみ、いつも私を……私と、共寝をする時に我慢をしているだろう?」
寝椅子に座った状態で、上半身だけが向かい合う今。ジェラールは挑発するようにヘクターの胸に手を置き、するすると筋肉の溝を辿るようにして徐々に下へ下へと手を滑らせる。
その手つきは、他でもない。ヘクターがいつもジェラールに施すものを真似ている。
「また……随分と、いけない事を学んだようで」
「誰かさんのせいだな」
たどり着いた脚の付け根で一度ジェラールの手は止まる。
すでにきわどい位置に置いては居るが、中心にはまだ触れていない。
「ヘクターはいつも、こうやって私を乱すよね」
触れそうで触れない位置を保ちながら、ジェラールは頭をヘクターの胸元へ押しつけ媚びるように見上げる。
「私はきみを、きちんと満足させている? 私ばかりがきみに貰い過ぎていない?」
「それで、あんなこと言ったんですか」
「だってこれは……ひとりでするものではなくて、きみと愛しあうためにすることだろう?」
きわどい位置に置いていた手を離し、両手をヘクターの首へと回す。口付けを交わす時のように顔を傾け、だが唇を落としたのはヘクターの唇の端。
「だから、見せてくれ。きみがいつも隠しているもの。私に見せてないきみを、見せて。いつも……私ばかり、きみに翻弄されるのは……平等じゃ、ないだろう?」
「その身体はあんた一人のものじゃないことをよくよく分かっていらっしゃるでしょう」
「では私が君の体を大切に思ってはいけないのか」
「同じ天秤にそれが乗るとお思いで?」
「今この時はそう思っているが」
「話になりませんね。あんたと俺の価値が違うことなんか、俺がわざわざ言わなくてもわかるでしょう」
「だが今は私は〝皇帝〟ではないよ」
「夜が明ければあんたは〝皇帝〟だ」
に、とジェラールは笑う。
「今は夜だよ、ヘクター。それで言うなら私は今、〝皇帝〟じゃない」
「……あー言えばこー言う」
この夜のジェラールが引かないことを分かったのかヘクターは大げさにため息をついて見せた。
「きみだって男だろう? 恋人をめちゃくちゃにしたいという欲求は無い? 私は……あるのだけれど?」
ヘクターの表情は変わらない。
そのことに少々口を尖らせながら、いつもの彼を思い出して普段のジェラールに比べればずいぶんと大胆にヘクターの逞しい首筋を辿るように唇を落としていく。
「頼むよ、ヘクター。我慢をしないで」
引きはがそうとしてくる手を取って細い指を絡ませて。見せつけるように互いの指が絡まる境目に口づけた。
「ジェラール様、俺は」
懇願するように切なげに見上げ、唇を落とす場所を腕の稜線に沿って登っていく。ちらと視線を流せばヘクターはやっと揺れた表情を浮かべていて、さらに息を呑む音が聞こえてきた。満足感から自然と口角が上がる。
「それともそんな意気地はきみには無い?」
駄目押しのように彼の首に強く吸い付く。一度もつけたことのない所有印を、衣服で隠れない場所に刻んで達成感が胸を満たす。
目を細めてヘクターを見やると、分かりやすい挑発に相手の目元は一気に鋭くなる。
「……へえ?」
網に掛かったことを確信してジェラールは純粋な喜びで胸を満たしたが、余裕があったのはそこまでだ。
「分かりましたよ、ええ、十分にね。それ程に俺に誘惑してくるなら、あんたの覚悟も本物ってことだよな? その覚悟を無駄にするほど男としての矜持は枯れちゃいませんよ」
据わった目がジェラールを射抜く。気づけばジェラールはヘクターに腰を抱かれ顎を引き上げられ深く口付けられていた。
「んっ!?」
ジェラールが驚きで身を固くしている間に、遠慮も何もない乱暴とすら言える熱い舌がジェラールの口内を犯していく。角度を変え何度も重なっては少し離れ舌を潰し合いあっという間に息は上がる。耳に届くいやらしい音が自らの口から響くことがこんなにも淫靡だなんて、改めて分からされて頭が茹るようだった。
急展開に目を回し、やっと離れた口からは短く荒い呼気が若干の湿り気を帯びて飛び出していく。
「お、わり……?」
「そんなわけ無いでしょうが」
思わず呟いた言葉には即座に否定が入り、声に導かれるまま顔を上げれば、ヘクターは曲がりなりにも成人男性の平均程度はきちんと備わっているジェラールを軽々と横抱きにした。
「はっ!? へ、ヘクター!? じ、自分で! 自分で歩ける!」
「まあそうでしょうね」
抵抗空しくあっさり寝所へ抱かれたまま運ばれ、あっという間に衣服を剝ぎ取られ、瞬く間に寝台へ押し倒される。
展開の速さにジェラールの頭上にはずっとクエスチョンマークが浮かんでいる。
どうしてこんなことに!
だが逃げ場などあるはずない。
退路は自らがしっかりと断ってしまったのだ。
「我慢をするなと言ったこと、忘れないで下さいね」
「あっ」
明かりの少ない寝台から見上げたヘクターは怒りを露わに、尖った瞳でジェラールを射貫いた。その顔に掛かる影が若干恐ろしい。
早まってしまった、と思ったときにはもう、引き返すことは出来なくなっていた。