アバロンのメイドたち

#ハウスメイドとジェラール

そして、メイドは貝になる

ただのメイドという身分である彼女は、決められた毎日、決められた仕事、決められた時間、決められた規則で出来ていた。
そのことを特段不便に思ったことも無かったし、淡々と仕事をこなせばきちんと評価がされ賃金に反映される。そしてこの仕事は貴人の日常を守る一端を担っているのだ。そのことを誇りにも思っていた。
その彼女でも、ひとつだけ不思議な仕事があった。
時期はまばら。期間は数か月程度空くこともあったし、また一週間と経たずに指示されることもある不思議な仕事。
ひとつ、主の寝室へ水を張った盥と手巾を沿えて届けること。
ひとつ、その盥と手巾を届ける時刻は侍女頭によって都度告げられる時刻を守ること。
ひとつ、その盥と手巾を届けた後は主の寝室へ近付いてはいけないこと。
ひとつ、何を見ても、聞いても、心の内に留めておくこと。
――最後のひとつはメイドとしてこの城で働くとき、初めから契約に入っている。

〝この場所で見聞きしたことを外へ漏らすべからず〟

とはいえ人の口に戸は立てられない。噂話はさわさわと城をめぐり人を伝って町へと流れる。
その前提があるからこそ。
念入りに秘密を守るよう言いつけられるこの仕事は、余程他人の口に上らせたく無いらしい。
この仕事を初めて受けた時、威圧感のある兵士を伴い訪れた侍女頭にせせこましく窓も無い窮屈な個室で「必ず守ること」ときつく言い含められた。
この仕事を知っているのは彼女自身と、これを必要とする日を告げに来る侍女頭、最初に居た兵士と、あとは――これは想像だが――その上の方々だけだろう。
これほどに厳しく言われた事は今までになく、一体何をやらされるのかと震え上がる思いだったが、仕事はただ「主の寝室に決められた日、決められた時間、決められたものを届けること」のみ。
それを聞き肩透かしをくらった気分だったが、彼女はかしこく口を閉ざす。
使用人は人間ではない。だから目も見えないし耳も聞こえない。
指示された仕事を淡々とこなし、日々を過ごす。そういうものだ。
「かしこまりました」
そう言って仮面のようにいつでも取り出せる微笑みを浮かべる。もう慣れたものだった。
そして今日、くだんの仕事が入った。
指示をされたから彼女は主の寝室へいつもの水を張った盥と手巾を沿えてただ運ぶ。
――主の事を皆、皇帝陛下と呼んでいる。その人の寝室へと。
彼女たち使用人にとって、皇帝陛下は雲の上のお方だ。
気さくなお人柄で、民草にも優しく人気がある。
だが彼女にとっては仕えるべき主であるし、かの皇帝陛下に直々に会うことが許されているのは更に上にお仕えするものたちのみ。彼女はそういった上級使用人の手足となり動くものであった。
いつも通りに部屋の扉の前を守る兵士に定型の言葉をかければ扉は開かれる。
あとは寝室の中央にある寝台からやや離れた場所にある小型机の上へ盥と手巾を置き、運ぶ時についた水滴を拭って辞すだけだ。
慣れた足取りで進み入ってすぐ。
かたり、と音がして彼女はそちらに顔を向ける。
いつも誰も居ない場所に人影があった。
驚いて息をのむがあちらも彼女に気づいて視線が合った。
相手がどなたであるのかなど言われなくても分かる。
慌てて手にした盥と手巾を床に置き平伏する。
「ああ、しまったな。来るのが早かったか……それを持ってきてくれたのだろう? ありがとう」
もったいないお言葉です、と返せればよかったが、彼女は答えられない。雲上人と気安く言葉を交わせる立場にはいないのだ。
「きみ……そうか、直答を許す。楽にしてくれていいよ」
「もったいないお言葉です。感謝申し上げます」
「楽にしてくれていいのに」
砕けた様子で彼女に声をかけるこの部屋の主はくすくすと笑った。
「顔を上げて。いつも持ってきてくれるのはきみ?」
そうして皇帝は彼女の予想に反して柔らかな声を続けてかけてきた。
言われた通りに平伏をやめ顔を上げるがまだ膝は付いたままだ。
「ありがとう存じます。左様でございます」
「そうか、ありがとう」
「……職務でございますれば」
「それはそうだね」
じゃあいつものところへよろしく、という言葉と共に指先で示されたのは見慣れた小型机。
はい、とひとつ返事をして立ち上がり恐れ多くも皇帝陛下のすぐ近くでいつも通りに運んできた盥と手巾を定位置へ。
仕事は終わったのだから挨拶をして辞そうとしたとき、背後で物音がしてつい顔がそちらに動いてしまった。
「ああ、きみ」
彼女はしかし、分かりやすくその先を隠すように身体を入れた皇帝の姿を見つめることになった。
未だかつてないほどに近い距離で見上げた若き皇帝陛下は、逞しい姿で彼女を見下ろしている。
そもそもが男性に縁遠い人生を送ってきた彼女にとって、自分とは違う体つきをした〝男〟という生き物を、こんなに間近で見上げた事はなかった。
そしてなによりも相手は皇帝陛下である。
赤くなったり青くなったり、彼女に訪れる初めての変化は目まぐるしいものだった。
「さて、もういいよ、下がりなさい」
先ほどとは違う有無を言わさぬ言葉に、はっと我に返ることが出来た彼女は素直にはい、と口にして深く頭を下げた。
そしていち早くこの場を辞すために行動する。
貴人の前であるから粗相は出来ない。もつれそうになる足を叱咤して見た目には優雅に、内心は走り抜けるつもりで部屋を辞した。
扉を抜けて日常の風景が戻ってくると肩の力が抜ける。
「どうかされましたか?」
扉の前を守る兵士が居たことを忘れて思い切り息をついてしまった彼女は大げさに身を震わせる。
「あ……い、え。何も」
自前の仮面は優秀だった。誰かの前と思えば平静を装うことを可能にした。
だがそれをいつまで保てるかは分からなかった。
ひとまずはいつも通りの仕事の終わりを告げてその場から離れることを優先する。
それ以降は訝しがられもせずこなすことが出来た。
だがその反面、ずっと内側で暴れているものがあった。
彼女は混乱していた。考えないようにしていたことの答えを偶然手にしてしまったことについて。
日時を指定してごくたまに用意させられるもの。それが示すことを誰も口にはしないが分かる。分からないはずも無い。
けれどもそれを口にすることは禁じられていて、そして使用人はそのようなことまで考えなくていいのだ。
けれど浮かんだ答えを考えずには居られない。
――あの場所で今日陛下は誰かと逢引きするのだと。
「……どうしましょう……!」
しかし、人間には飲み込める量というものが決まっている。その線を越えた彼女は思わずその場でうずくまる。
「あの……大丈夫、ですか?」
はっとして顔を上げる。自分の顔が赤くなっている自覚はあった。慌てて立ち上がると彼女よりいくつかは年下と見受けられる兵士がそこには立っていて、聞いてもいないのに焦ったように「巡回をしていて、苦しそうに見えたのでお声がけを」と続いた。
つい先程まで、彼女はこの距離で男性をまじまじと見ることが無かった。
比較してまた思い出してしまった。きっと皇帝陛下がその身で隠した先には逢い引きの相手が――
咄嗟に首を横に振った。考えてはいけないことばかりが浮かぶ頭に苛つく。
「ええ……少し、めまいを起こしてしまって。もう大丈夫です」
今日は仮面が大活躍する日のようだ。仕事のために誂えてある笑顔を動揺を隠すために浮かべて会釈する。
相手の兵士も彼女の様子に気圧されたのか、何かを言おうとした口を閉じて会釈を返し当たり障りのない返事がくる。
そうして早々に会話を切り上げて、何事も無かったように彼女は歩き出す。自分のいつもの場所へと戻るため。
たとえ心臓がいつもより随分と早く鼓動を刻んでいても。
こういう時に相談できる家族も恋人も友人も、ひとりも居なかったのだった。
けれどももし、居たとして。
彼女は口が堅いのだ。だからこそ選ばれた。
彼女は使用人。
使用人は目も耳も持たない。
彼女は、城にいるただの寡黙なメイドだ。
だがまだ頬は少し赤いままだった。
「とんでもない、秘密だわ」

じゅうぶんおとな。