帝国私記-獅子の眠る国【4万文字サンプル】

第一章 甘い男

  1

――ああ、こいつは駄目だ。
誰に言うでもなく、ヘクターは心の内でそう呟く。多少はその思考が視線に乗ったかもしれない。
ヘクターの目の前には大切に育てられたことが出立ちでわかる、このバレンヌ帝国第二皇子であるジェラールが居た。
ぼさぼさの箒のような髪を持つヘクターと違って、艶のあるよく手入れされた髪であることだけで、違う生き物のようだ、と思う。実際そうなのだろう。
ヘクターが仕えるのはこの皇子の父であるバレンヌ帝国皇帝、レオン。そのレオンはどんな思惑があってか、これまで戦には連れて行かなかったこのジェラールを今日初めて伴いモンスターの溢れる巣窟を封印するため出陣していた。
もし気に入れば今後仕えてやらないこともない、とヘクターは思っていたのだが、顔を見た瞬間に悟った。こいつは駄目だ、甘すぎる、と。
「やあ、ヘクター」
「……オレの名をご存知でしたか」
「それはもちろん知っている! きみの武勇はよく聞こえるもの。それに父上も名指しで褒めるのはきみを含めてそう多くはない。きみのように強い者が居てくれて頼もしい」
「それはどーも」
礼を失していることはもちろんヘクターはよく分かっている。わざとやっているからだ。
(ここまでナメた態度取ってるにも関わらず、何も言わないとはね)
それに気にした様子も無く、ジェラールは続けてアンドロマケーにも声をかけている。
「アンドロマケー、もちろんきみのことも知っているよ」
「覚えていて下さるとは光栄です」
「きみの剣は速くて目で追いきれないともっぱらの評判だ。とてもきみのようにはなれそうもない」
「お褒めにあずかり光栄です。ですがジェラール様、ご自身でもお鍛えになられませんと。もっと剣の技を学ばないと、いざというときに身を守ることも出来ませんよ」
「いざというときは、きみに守ってもらうさ」
するりと第二皇子から出た言葉はアンドロマケーの動きを止めさせ、ヘクターには深い深いため息をつかせた。
「そんなことでどうします! レオン陛下やヴィクトール様を見ならってください」
はっとしたアンドロマケーは思わずといった風情で前のめりで一息に言い放つ。
その様子を横目で窺っていたヘクターはガタリとわざと音を立て椅子から立ち上がると扉の方を目指す。もうジェラールの顔は見なかった。
「本が好きだ、内政で父上と兄上を支えたい、そう仰ってたでしょう。その通りになされば良い。そのほうが、アンタだって生きやすいだろ」
追いかけるようなジェラールの声が聞こえたが振り向かない。
「えっと……ヘクター?」
「人間、向き不向きがあります。ジェラール様は学問でもやっていればいいんですよ」
そう言い捨てると扉をくぐって部屋を後にする。
文句の一つや二つ飛んでくるかと思っていたが、ヘクターの予想は外れその背に何かが降りかかる事は無く、第二皇子はヘクターの背中をただ見送っていた。
それがまた腹立たしかった。
壊された気分を忘れようとヘクターはそのまま不機嫌を隠さぬまま城の中を進む。道行く先の人々がヘクターに気付くと女は焦って道を空け、一部の血気盛んな男は睨みながら退かないために「邪魔だ」の一言と共に跳ね飛ばされていった。
さわさわと耳障りな声を背景にヘクターの足は止まらなかった。街まで出て酒でも飲まないとやっていられない。例え今が待機の時間であったとしても招集がある時に戻ればいいだけだ。
城を出れば道は広く人が避けずとも良くなるが、それでもヘクターの纏う空気が人を遠ざけさせる。
その状態のまま、一番近く馴染みのある酒場の扉をくぐった。
「オヤジ、アクアビット瓶でよこせ」
カウンターの空いている椅子に腰を下ろしたヘクターは地を這うような低い声で注文を口にした。その声音に椅子一つ分離れた場所で飲んでいた男は「ひっ」と声を上げて椅子から立ち上がりカウンターに代金を投げつけるように放り「また来る!」と叫んで酒場を出て行った。
「まいど」
金を払ったのなら止める理由も無い。店主は散らばった硬貨をかき集め酒器を片付けカウンターを布巾で清めながら一般人ならば飛び退いてしまう程に険しい顔をしている男を見る。
「なんだなんだヘクター、随分荒れてるな。おい店の物を壊すなよ」
「まだ壊してねェ」
「これからも壊すなよ。十倍で請求するぞ」
「ふざけんな」
呵々としてこの店の主はヘクターをからかいながらその目の前に陶器製の瓶と杯の揃いを戸棚から出し、瓶の方へ注文通りのアクアビットをなみなみ注いで出してきた。ひったくるように陶器瓶を手にして足付き杯に注いで一気に呷る姿を見ながら彼はやれやれと肩をすくめた。
店主はヘクターがそれこそ酒の飲めぬ子供の時分から知っている。大人の真似をして酒を口に含み目を回したことまできちんと頭には入っており、ヘクターがやがて青年となり戦士となり、傭兵隊長へと出世していった姿をその目で見てきた。だから彼にはヘクターが腕で周囲を分からせようとする乱暴者であったとしても、ずっと見守ってきた子供、という印象が勝っていた。そしてもしヘクターが暴力に訴えようとすることがあるならば、その拳で渡り合うことはまだ出来よう。実際彼もこのような場所で酒場の店主を務めているのだ。腕っ節にはある程度自信があるのである。
そこへ酒場の扉が開く音がする。店主が「いらっしゃい」と声をかければ訪れた新しい客はヘクターの隣に腰を下ろした。艶やかな長いエメラルドグリーンの髪が美しくなびき、そして何より完璧なプロポーションを持つ彼女は昼間であるに関わらず酒場に入り浸る男たちの視線を奪う。
しかし彼女にとってそれは慣れたものだ。気にも留めず店主に注文を伝えると左隣の男、すなわちヘクターに話しかけた。
「やっぱりここだったね」
「何しに来た、アンドロマケー」
「そんなの決まってる。酒を飲みに来たのさ」
すぐに運ばれた注文通りの酒を礼と共に受け取り口を付けた。それから思い出したように杯を軽く掲げ「乾杯」と言った。
毒気を抜かれたヘクターは彼女の動作にならって空のままの杯を掲げた。
しばらくは無言で酒を舌に乗せていた二人だったが、アンドロマケーが口を開く。
「それで、感想は?」
わかりきっていた事だが、彼女もまたあの邂逅に多少なりとも腹を立てていたのだろう。
ヘクターは答える前に陶器瓶から杯へ中身を注ぎ入れてまた一息に呷った。喉を通っていく酒は水のように飲み込まれていく。
タン、と音を立て杯がカウンターに置かれた。
「あれは無い」
「やれやれ、そんなに突っかかるなんてねえ」
「お前だって呆れてただろ、顔がすげえことになってたぜ」
「まあね。それはそれとしてあんたね、女に〝顔がすげえことになってた〟なんて言っても良いと思ってるのかい?」
「気にするタマかよ」
「……少なくともあんたには言ってもしょうがないことだったね」
アンドロマケーは額を押さえてかぶりを振った。
「全く、抱く女にはそれなりにするくせに同僚の女には全部その辺の配慮をしないんだから」
「しても無駄だろ。それと同僚じゃねェ。オレは隊長なんだからオメーの上司だ」
「はいはいそうだね隊長どの。その割に前線に突っ込みすぎていらない傷負うのは隊長の仕事だっていうのかい?」
「戦わねえ腑抜けよりマシだろ」
「そりゃそうだけどね。あんたの場合は戦闘狂なだけだろうに」
「剣を振るってる方が性に合う」
「はは、それはあたしもそうだ」
フリーファイター……傭兵である彼らはその腕一つでのし上がってきたものたちだ。
性別に関係なく好戦的、報酬金があればあるほどそれに群がり、一クラウンでも多く積まれた報酬金を出す者を主とする。
しかしこの城にいる殆どは、それぞれの義を持ってフリーファイターとしての武働きを対価に差し出している。
強きものの下で剣を振るうこと。
ヘクターにとってはそれがこのバレンヌ帝国、皇帝レオンのもとで己の剣を振るう理由であった。
誰に理解をされずとも、己の信念とも誇りとも呼ぶべきものを持ち、それに従って生きている。
だが先ほどのあの男は、あの坊ちゃんは違う。思い出した腹立たしさに指先に力がこもる。
ビキ、と硬質な音が手元からして、ヘクターは視線を落とす。そこには見事に罅の走った足付き杯がぱらぱらとその破片を落とし始めていた。幸いな事に中身は空だった。
店主の目に入る前に捨てようとして、頭上から声が落ちる。
「壊すなって言っただろうが。十倍だぞ、ヘクター」
ちゃんと払えよ、と言いながら店主は伝票に書き付けヘクターの眼前にずい、と押しつけた。
「端数は勘弁してやる」
「……クソ」
逃げ道は、残念ながら無かった。


  2

「あの坊ちゃんを連れてまた戦に出たのか」
「最近は多いねえ。おかげであたし達は城で留守番が増えちまった」
アンドロマケーの残念そうな声を聞きながらヘクターは腕を組んで椅子の背もたれに乱暴に背を付けた。
彼女の言うとおり、ジェラールが初陣を果たした後からレオンはジェラールを連れ近隣のモンスター討伐へ幾度も打って出るようになった。
それと時を同じくして、フリーファイターである彼ら彼女らはもっぱら城の守りを命じられることとなったのだ。
剣を振るい、戦うことを生業、そして生きがいとする彼らにとってはやりがいに欠ける仕事であった。
それをレオンが分からぬはずがないだろうに――そうヘクターは考えるが、意見をする立場には残念ながら無い。
その様子を見ていたアンドロマケーは流麗な眉を片方持ち上げにまりと口元を綻ばせる。
「ははぁ、ヘクターあんたレオン様が今になってジェラール様を重用していることに嫉妬してるのかい?」
「んなワケあるか」
「じゃあその〝どうしてオレを使わないんだ〟っていう顔をやめたらどうだい?」
眉間に皺を寄せたヘクターは気分を害した様子を隠さずそっぽを向いた。
アンドロマケーはそのわかりやすさにまた吹き出しそうになりながら、立ち上がって彼の背をぽんぽんと軽く叩く。
「まあ、アタシもなんで今になってジェラール様を連れ歩くのかは不思議だね。ヴィクトール様も伴うならまだしも、城に留め置かれて……何かお考えがあってのことだとは思うけど。あれだけ立派なヴィクトール様が居て、周りだってレオン様の後継はヴィクトール様だろう、って口を揃えてる。今ジェラール様に力を持たせてどうしようってんだかね」
お偉いさん考えることはさっぱりわかんないよ、と彼女は肩をすくめて見せた。
アンドロマケーの言は、いまアバロンで嵐のような速さで走り回る話題でもあった。
バレンヌではたとえ皇帝であっても前線に出て武勇を示さなければ兵は付いてこない。
レオンはまさにその武勇を見せつけ台頭し、皇帝となった人であった。今彼の側にいる将軍たちは皆彼の若き頃からの強さに敬服し忠義を誓った者達だ。そしてそれはヘクター、アンドロマケーたちフリーファイターの面々も同じ事。
強さは単純に人を従えるだけの力でもある。
だからこそレオンの勇猛さをそのまま受け継いだようなヴィクトールが後継者として立太子している。
それが今になってまるでそのヴィクトールと肩を並べさせるようにジェラールに武勇を示させようというのはどういうことなのか。
まさか息子達を競わせようというのではないか、いいやこれを機にジェラールに対して甘言を吐き国を乱そうとするものをあぶり出そうとしているのでは、いいやいいや、それとも。
憶測が飛び交い人々の口からは不安が垂れ流される。だからこそ二人の耳にまでそんなことが届くようになっているのだ。
「レオン様はジェラール様を皇帝にしようとなさっているんじゃあ」
「おいアンドロマケー、滅多なことを口にするもんじゃねえぞ」
「おっとごめんよ。……でもあたしはそんなことになったら許せない。ヴィクトール様に何が足りないっていうのさ」
「さあな。さっきオメーも言っていただろ。〝お偉いさんの言うことはわからねえ〟ってよ」
「それは……そうだけど」
唇を噛んだ彼女はふいと視線を逸らし窓も無い待機所の壁を見つめる。ヘクターからはその横顔しか見えない。
「次の皇帝がヴィクトール様だっていうなら、あたしはこの国に留まるけどさ」
ジェラール様なら、と言ってから、彼女は次の言葉を口にしなかった。
アンドロマケーの言いたいことを、ヘクターはよく分かった。全く同じ事を思っていたからだ。
城内に渦巻く暗雲と同じく、それぞれの胸の内にも取り払えない厚い雲がかかっていた。

  †

レオンがジェラールを連れるようになってはや三月みつき
その日もまた、レオンがジェラールを伴いアバロンにほど近いウオッチマンの巣に向け出陣した。
ヘクター、アンドロマケーは変わらずにアバロンで留守を守り、そして同じく最近ではいつものこととなったヴィクトールが城の守りを請け負っていた。
「全く暇だ」
「まあね」
アンドロマケーと並び、待機所でヘクターは管を巻く。
悉くレオンに随行することが叶わず、しかしまるでこれまでのヘクターの代わりのようにジェラールを伴ってモンスター退治に行くことが増えれば、自然とジェラールに対する気持ちは下がっていく。それがいくら八つ当たりに近い感情であっても。
いつだったかアンドロマケーと話した日の、彼女が言わなかった言葉の続きを今にも口にしそうな程にはたまりかねている。
「……全く、モンスターでも攻めてくれば戦えるんだがな」
「街が攻め込まれたら酒場が潰れるから嫌だよ」
「その前に全部倒せばいいだけだろ」
その腕はある。ヘクターは自負していたし、また事実でもあった。
それにこの三月みつきの間、アバロンは平和そのものでそして平和というのは戦士にとって退屈であるのだ。
その日もまたつまらない留守番をこなすだけの退屈な日。そうなるはずであった。
だが。
カーン カーン カーン
遠くで鐘が鳴り響くのを二人の耳が拾った。
「……ねえ、ヘクター」
「ああ」
その鐘は滅多に鳴らされることは無い。だからこそすぐに反応出来なかった。
鳴り続ける鐘の場所は、アバロン市街地の城門にある尖塔。焦りをそのまま表すような音が重なる度に嫌な気配が戦士たちの肌をぞぞぞと上る。
鐘が滅多に鳴らないのは城門で異常事態が発生することが近年無かったからだ。
そして、鐘が鳴る事態が今示すのは。
弾かれるようにヘクターとアンドロマケーは立ち上がり各々の得物を手に扉を破るように開け放つ。
「城門が突破されたってのか!?」
「それしか考えられないだろう!」
蝶番が悲鳴を上げたが構っている時間は無かった。同様に各待機所から兵卒が飛び出し怒号を飛ばしている。
「一体何が!」
「敵襲! 敵襲!」
「なんだと!?」
「一体どこから!」
「敵は!」
「街は!」
場は混乱していた。訓練を積んでいる兵士たちとはいえやりとりが急に増えた場では情報は正しいものがなんなのか判然としない。
舌打ちをしたヘクターはこの目で確認した方が早いと人波を掻き分け城外へ進む。その後ろをアンドロマケーを先頭に、傭兵たちが続く。
――敵襲、と言った。何より城門の鐘が鳴った。救援が必要なことは確かである。
城内で宮廷勤めの兵卒が各部隊長の下で足並みを揃えている間に、〝緊急時はただヘクターに続くこと〟だけが主だった命であるフリーファイターの面々はヘクターが進んだその後を実直に追ってくる。こういった時は素早く動きが取れることは利点であった。最もあとのことは行き当たりばったりであり、普通であれば下策である。だがそれを跳ね返すだけの実践経験と腕がその動き方を支えている。彼らには彼らの流儀がある。
今は、この街に危機が迫っていることを肌で感じて前線へと躍り出る。レオンの指示の通りに街を、そして留守を預かっている皇族のヴィクトールを守るために。
城の外に出ただけで何が起こっているのか分かった。
――モンスターに攻め込まれたのだ。目視で分かる位置にいると言うことはもう市街のど真ん中にまで侵攻を許している。
走り出し抜剣する。
戦いの匂いに、ヘクターの口元はにやりと上がった。
「行くぞお前ら! 今こそオレたちの力を示せ!」
おお、とヘクターの後ろに続く面々が、その声で分かるほどに浮かれている。
戦いの場こそ彼らフリーファイターの咲き誇る場所。
大いに戦い、そして一匹でも多くのモンスターを斬り伏せる。
そのためだけに進む。
後のことは後のこと、守ることは城の兵卒たちに任せておけばいいのだ。
戦うことしかしない。戦うことで前をのみ切り開く。
そのために、ヘクターの、フリーファイター達の剣はある。
怒号を上げる人間たちにモンスターたちも気付いたようだ。好戦的なものから続々と人ならざるもの特有の雄叫びを上げ襲いかかる。
ゴ、と大きな物体同士のぶつかり合う音が空気を揺らす。前線の戦士とモンスターが刃を合わせたのだ。その瞬間から、戦場は加速する。
あちらこちらで剣戟が高く轟き恐怖を押し殺すように人もモンスターも声を上げて互いを切り裂く。
その中でもやはりヘクターは侵攻の速度を止めること無く、斬る、斬る、斬る。
剣は縦横無尽に踊るような動きを見せる。目の前の敵を縦に真っ二つにし、下段から上段へ逆袈裟斬りにし、横薙ぎに払う。
目の前の邪魔な障害物を斬るだけの如くモンスター達をただの肉塊にしていく。
その速度を伴った進行がモンスターたちの隊列に亀裂をもたらし、あとはその亀裂を広げるようにヘクターの後に続く者達がモンスターの隊列を分断する。
そうなれば左右それぞれに散り数を少なくしたところを取り囲み殲滅するのみ。モンスターが塊になった場をめがけて数多の剣が振り下ろされる。
やがてモンスター達の断末魔と共に騒ぎは静まっていき、逃げ遅れた住民たちにも城の兵士達の手がやっと伸びていく。
さて前線のヘクターは頬に張り付いた返り血を親指で拭いすっきりと通りやすくなった市街地の中央通りを走っていた。
中央通りはその名の通りに普段であれば活気に満ち人々の商いの声や世話話の声、子供達のはしゃぐ声が響き渡る賑やかで華やかな道である。
それが今は面影なく踏み荒らされ、抉られ、倒壊してしまった家屋からは火の手が上がってもいた。
その様子を目にしながら舌打ちをしてなお先に進む。
目指しているのは異変を知らせた城門だ。そこまで押し返せばある程度の沈静化も敵うだろうとあたりを付けての目標の設定であった。
だが市街のど真ん中に到達しようという時。近づけば近づくほどに肌がビリビリと焼け付くように異常を伝える。
それでもヘクターの足は止まらない。異変の中心へと進むために走る。
その先に見えたものは。
「ヴィクトール様!?」
ヘクターの横で並走していたアンドロマケーが悲鳴のような声でかの人の名を叫ぶ。
そう、市街のど真ん中、異変の中心ではヴィクトールが先立って剣を合わせていた。
「なんだ……あれは」
絶句し足を止めて無防備に見上げているしか出来なくなっている部下たちを、しかしヘクターは叱責することも出来ぬ。
ごうごうと立ち込めるのは悪しき気を纏った風、である。その風の中心にはこの世のものとは思えぬ肌と容貌。だが妙なことに神を目の前にしたかのような畏れもある。片腕が本体からうねる様に蠢き魔の気配漂う剣を手にしている。本体、であろう部分には角を生やした頭部と腹のあたりから続く爬虫類のような下肢、足は無く蛇のような尻尾を持っている。その身体におざなりに巻き付く濁った紺色の布がふわりと生地の端を風に揺らしている。布を巻き付けるなどまるで人間の真似事をしているかのようだ。
しかし、一番に驚くのは――それが人の形をしていないにも関わらず、人語を発し、ヴィクトールと会話をしていることだ。
「あいつ……モンスターなのに、喋っていやがる」
「人型でもないってのになんで……」
モンスターの区分であっても、元が人であるものは人語を発することもある。だが明らかに人ではない見た目を持つものは得てして会話など土台無理というのが通説なのだ。
なれど目の前の異形は、澱むことなく人語を操っている。それだけでも異質さが際立つというものだ。
駆けつけた傭兵部隊が見守る中、当然の如く会話は決裂したらしい。ヴィクトールは抜剣し恐ろしさが肌を走るような異形に勇敢に斬りかかる。
「ならば、これでどうだ!」
素早くモンスターの懐に飛び込み、曲芸師のような軽やかさで半円を画く剣筋。
「流し斬り!」
身の回転の遠心力をそのまま剣に乗せた一撃はモンスターの皮を肉を断つ。
――はずだったのだ。
「なっ」
驚愕の声を立てたのは傭兵たちであった。その目で見ていたのだ、技は完璧に異形のモンスターに入っていた。そう見えていた。
けれど攻撃を受けたはずのモンスターは楽しげに、そして……被虐的ににんまりと両の目を逆さの月のように細めた。黄色い人ならざる目がぎらついている。
「くッ、今一度!」
「ヴィクトール様!」
ただ突っ立って見ているわけにはいかない。
そして何よりヘクターの肌を焼く命のやりとりの気配がその足を前に進ませる。
だがその足を止めたのはヴィクトールの咆哮だった。
「来るな! 私が――仕留める!」
大地を割るような雄叫びが轟く。びりびりと空気を震わせ観客に成り下がっている傭兵達をじり、と一歩下がらせる程の覇気。
それは、ただ一人の戦士の宣誓である。
「流し……斬り!」
目にもとまらぬ疾さで敵の懐に飛び込んだヴィクトールはまた同じようにいいやより冴えた剣筋を光らせ真昼の今見事な半月を街に輝かせる。
深く食い込んだ剣を誰もが見ていた。
今度こそは、と技を放ったヴィクトールすらも思っていた。
しかし目の前の異形は楽しそうにケタケタと笑う。
「ほー、なかなかやるな。……だが、まだ若い」
「馬鹿な!」
今度こそ、二度も確かに手応えを感じていたというのに倒れることがない異形に、ヴィクトールが信じられない、と叫ぶ。
「ソウルスティール」
剣を構えたまま唱えられた術に身構えるも、ヴィクトールの中心から朱い光球がいくつも飛び出す。
「うわああーッ!」
「ヴィクトール様!」
あろうことかそれらは異形のモンスターめがけて集まり、吸収されてしまった。
「ぐ……あ! ……っ」
ヴィクトールの叫びを背景に、ぐわん、と空気が揺れる。異形のモンスターはヴィクトールから吸収した光球を纏い一段明るい朱を身に光らせた。満腹だとでも言うように、腹、のような場所を一つ叩いた。
異形はおい、と一番近くで腰を抜かしている帝国の兵士に近寄ると嗄れた声でこう告げた。
「我が名はクジンシー。ソーモンでお前を待っている……そう皇帝に伝えろ」
あたりに響くのは異形の高笑い。最悪の残響を残して異形は去って行く。
暗い、暗い暗雲立ちこめる空へと。
「クジンシーだと……?」
空を睨み付けながらその名を呼ぶ。もういない異形がその名を冠するというのか。
クジンシーはヘクターでも知っている〝七英雄の伝説〟と言われる……おとぎ話の登場人物だ。
古の時代に世界を救った七人の英雄。いずこかへ消えたが、いつの日にか戻ってきてまた世界を救うのだ、といわれている。
この話はこの大陸に育った者であれば必ず聞いたことがあるだろう。
その、古代の英雄達の名前は七人とも名がきちんと残っており、ワグナス、ロックブーケ、ボクオーン、ノエル、ダンターグ、スービエ、そして、クジンシーという名である。
随分人間にとって都合がいい話だ、とヘクターはこのおとぎ話を真面目に取り合ったことはなかった。
だが今ここに古代の英雄と同じ名を持つモンスターが街を襲い、そしてヴィクトールを――
「ヴィクトール様!」
「早く! 早くレオン様に伝令を!」
「馬鹿者それよりも回復士を呼べ!」
ヘクターがはっとして振り返ると背後ではヴィクトールを中心に群がるようにしか出来ない兵士たちが混乱を極めていた。
「馬鹿野郎! 一つずつしっかりやれ! おい、城の術士はまだか?」
たまらずヘクターが叫ぶ。伊達に〝長〟の付く役をこなしていない。
そして混乱の場で分かりやすく強い言葉は人を立ち返らせる。
「今呼んでいる!」
「よし。術士が来るまで下手な事はするなよ」
きちんと返ってきた声にヘクターは首肯すると進み出てヴィクトール横たえるのを先導した。
外傷を確かめるが不思議な事に全く大きな傷は無い。敵の技、または術を受けて苦しげに胸元を押さえていたものの、分かりやすい流れる血も無く、ただ生気が抜けたかのように白蝋が如く青ざめた顔をしているのがまるで死人のようで――
一刻を争うのはすぐに分かる。城からの人員を呼んではいるがこの騒動だ、直ぐに来れるとも限らない。たとえここに倒れているのがこの国の皇太子だとしても、〝時〟は身分など考えぬ。ただ平等に過ぎていくものだ。
「おい、ここに水の術使えるやつはいないのか!」
ヘクターは首を回し問いかける。すると人垣の中にぴんと立つ片手が見えた。
「わ、私が! 使えます!」
「頼む」
「はいっ!」
つんのめりながら人垣を脱した青髪の術士には見覚えがあった。おそらくは城の待機所で見たどれかだろう。
汚れるのを厭わず土の上に膝を付きヴィクトールの様子をてきぱきと確かめていく。青の短髪に額の輝きの新しい金の額当ては術士と認められてからまだ日が浅いことを示している。
だが今この場で一番の効力を発揮出来るのも彼だった。ヴィクトールに手を翳すとたちまち彼を中心として目が開けられぬ程の閃光が八方に走る。
「生命の水よ!」
術士の声に次いでその術の名の通り清らかな水が光を帯び慈雨のようにヴィクトールへ降り注ぐ。
光が収束し顔色が見えるほどになると……ああ、と落胆がありありと分かる声が周囲から漏れ出る。
ヴィクトールの様子は変わらぬまま、息苦しそうに顔を顰め短い呼気を発し続けている。
今にも消え去りそうな命の灯火を前に水の術士が術を唱え続ける。その横顔は険しいままだ。
ヘクターは簡単な手当は出来ても生きるか死ぬかの瀬戸際の処置など土台無理で出来ることなど何もない。ただヴィクトールの側を術士に明け渡し眺めている事しか出来ない。あと出来ることとすれば、信じたことのない神にでも祈れば良いのか。そんなもの、居るはずがないというのに。
喪うことを恐れる様な声で必死に兵士たちはヴィクトールの名を呼ぶ。まるでそうしていれば引き留められるのでは無いかと糸ほど細い可能性に縋る様に。
「ヴィクトール!」
その時、今ここに居ないはずの人物の声が轟いた。皇帝レオン、その人であった。
さあ、と人垣が割れて皇帝へ道を開く。
常には見ることのほとんど出来ない、焦りを隠しもしない荒い足取りで術士の手当てを受けるヴィクトールの側へ躊躇せず膝をつく。その後ろに顔を青褪めさせたジェラールも続いた。
「何があったのだ!」
「父上……クジンシーです」
間に合った、と表情が語っていた。まるでもう終わりがそこまで迫っていることを知って、少しでも多く少ない言葉で何かを伝えようとヴィクトールは痛みを感じさせる苦悶の声を捻り出し語る。
「流し斬りが完全に入ったのに……」
「ヴィクトール!」
「兄さん!」
ヘクターには、ヴィクトールの今際の際の唇の動きが読めた。
〝すまない〟
そこには戦士の無念が宿っていた。
伏せられた瞼、止まってしまった心臓の音。
もう、呼吸すらも聞こえない。
あっけない程に、瞬きの間に、命のろうそくは吹き消される。
その死を認めたくないとでも言うようにジェラールが術士に泣きながら縋っている。縋られている術士は、先ほどまでヴィクトールに術をかけ続けていた者だった。
噛み締めすぎ唇から血を流しながら、青の髪を持つ青年は縋るジェラールを抱き締め「申し訳ありません、申し訳ありませんジェラール様」と空回る言葉をからくり人形のように繰り返している。だが人形と違い、彼はその髪と揃いの青い瞳から止まることのない涙をこぼし続けていた。
「お願い、アリエス、兄さんを助けて……!」
子どもの様に願うジェラールの姿は周りの兵士たち、街の者たちの涙を誘う。
ジェラール自身ももう分かっているだろうに、それでも願うことをやめられないようだった。
「兄さん」
震える声を拾い上げるように、息子を喪ったレオンが、ただ一人残ったもう一人の息子の肩を抱く。
「ヴィクトール……よく、戦ったな」
レオンのその言葉に堰を切ったように兵士たちが口々にヴィクトールの名を呼び縋る。
遠い世界を見るような気持ちでヘクターはそれを眺めていた。
ここも、もう駄目かもしれない。
長く居た場所であったが、肌で感じ取る崩壊の兆しにまた主人を探し放浪する自分を見始めていた。
しかしヘクターはそれを思い直す。まだレオンがいるのだ。ヘクターが付き従うのはレオンという皇帝がいるからである。
国がどうなるのか、それはヘクターにとっては瑣末なこと。非常に単純なことだけを考えれば良い。
それ即ち、レオンの下で戦うことができるのか、否か。
それだけだ。

  3

帝都アバロンにモンスターが襲来し、皇太子であるヴィクトールがたおれた。
その一報は街を駆け巡り、悲しみがさざ波のように広がっていく。
日の暮れた今、壊された明かりの代わりに掲げられた松明が、送り火のように街を点点と照らす。
送り火は死者が天の国へ昇る道を迷わぬようにと灯される死出の導き。夢と現が交差するような光景は幻想的で、しかし深い悲しみをその火に映していた。
被害は街の入口である城門付近が最も酷く、そして命を落とした者が多かったのもその区域であった。
今もその場所に近づけば、亡くした者を思って祈る姿や慟哭が聞こえてくる。
時を同じくして、城内では亡くなったヴィクトールを始め多くの兵士たちへ祈りが捧げられている。
人目を憚らず涙を流している者も、亡くした者の名を呼ぶ者もいた。
それらの人を横目にヘクターはその場を後にする。もう死んだ者を、生き返りもしないのに偲ぶことの意味が分からなかった。
視界の端に入ったエメラルドグリーンの髪は見なかったことにして、扉を閉める。さすがのヘクターにも、静かに閉めるだけの思いやりはあった。死んだのは、ヴィクトールだけではない。いなくなった者の中に入ってしまったある男の笑い声が聞こえた気がした。好物であった酒を無性に手に取りたくなった。
酒場へ行くか、待機所へ戻るかを考えながら城内を歩いていると前方がやにわに騒がしくなる。
自然と目はその方向へ吸い寄せられていった。
「……女?」
その身のほとんどを布地に包み、胸元にある大きな月と太陽を模したかの首飾りがやけに目立つ。普通一番に目が行くはずの顔が額と目元以外は薄物のヴェールで隠されているからだろうか。
異国情緒の極まった身なりは否が応でも視線を惹きつけた。
しゃら、しゃら、と涼やかな音をさせて歩むとまるで巫女のようである。
毛色の違う女の姿を見て、ヘクターはつい視線でその姿を追い……階段の向こうへ消えていく様を黙って見送った。
何故あのような女が城に、という疑問は考え込むまでもなく周りが勝手に教えてくれた。
「……陛下はまたあの女魔導士を呼んだのか」
「陛下に謁見なさるのはこれが二度目か?  一体どういうおつもりなのだ」
「レオン様に限って、あのような女の術に惑わされるようなことは無いだろうが……」
「滅多なことを言うな。我らは何も聞かされていないのだ。妙な憶測は陛下のためにならんだろう」
「そうは言いながらおぬしとて気にならないわけではあるまい?」
「黙秘する」
「……だんまりは肯定と同じだぞ」
さわさわ、と城内の人間が幾人も噂話に花を咲かせ、一向に止まない。ごく小さな声でのやりとりであるがヘクターは一等耳が良かった。戦場でこの耳に助けられたことは幾度もあるし、こうして情報を収集するのに役立つ。時たま耳にするにも鬱陶しい言葉すら拾ってしまうこともあるが無視すれば良いだけのこと、このよく聞こえる耳は重宝していた。
そしてその優秀な耳が拾った噂話を聞けば、どうやらヘクターが知らないだけで、今の女はレオンに呼ばれる程の女魔道士であるらしい。だが一体なんの為の会談なのか誰も知らされていないようだ。
エキゾチックな見目は多少気にかかるものの、ヘクターが考えることではないのだ。それは皇帝であるレオンの仕事であろう。
そこで見たものを、ヘクターはすぐに忘れた。
こういうときは、酒に限る。

   †

一体どうしてこんなことに、とヘクターは前を行くレオンの背を眺めながら歩く。
付かず離れずの距離を保ちつつ、無言のまま付き従う。あての分からない道ゆきはヘクターの中の焦燥とも、怒りとも言える感情をより一層強めさせるだけだった。
明日ソーモンへ弔い合戦に打って出ると熱の篭った声を聞き、もちろんヘクターも付き従うと信じていたというのに、下された命はこの帝都アバロンの守りであった。
これに納得ができるわけもないヘクターが直談判に訪れると、レオンはまるで分かっていたかのようにヘクターを散歩へ誘った。
城の廊下にある窓越しに外を見上げる。空には月が出ている。この日は満月で、月の名所と呼ばれるアバロンの名に恥じぬ美しい夜空を彩っている。もっともヘクターにはそのような風光明媚を愛でる趣味はなく、ただ明るい夜だと思っているだけであるが、先を行く老年期に差し掛かっているこの国の皇帝は違ったらしい。
ヘクターと同じく窓の外を見上げた皇帝は、やっと口を開いた。
「良き月の夜だ。なあ、ヘクターよ」
はあ、とヘクターは返すしかない。なんせその良き月を、ただの明るい丸いもの、という認識しかしていないのだから。
それを知ってか知らずか、レオンは目尻に皺を刻んで笑む。そうしていると孫がいてもおかしくないだろう年齢のただの男に見えた。
それからまた歩き続け、最後に足が止まったのは城の最上階、アバロンの市街を一望出来るバルコニーである。扉の前には兵士が立っており型通りの礼を皇帝に捧げている。それに皇帝は片手で応え真っ直ぐに張り出したバルコニーを歩み欄干に辿り着いた。ヘクターもその後にならい、斜め後ろの位置に二歩ほど離れて立ち止まる。
レオンは欄干に両手を置きただじっとその先を眺めている。濃紺の空は裾までも濃い青を敷き詰めて、この夜の主役とでもいうような丸く明るい月が、臣下のように星々を付き従え輝きを競うよう光を発している。それはなにも空だけでなく、宵の始まりの今、市街地もまた明かりを灯して街の輪郭を描く。城から遠い場所はその光が失われてしまっているが、無事だった区画は毎日がそうであるように、家々が明かりを灯している。そしてヘクターの場所からはその中心に立っているようなレオンが、風に衣を髪を舞わせている。絵画のような光景であった。
けれども詩人でもなければ芸術に興味のある人種でもない。
そのような情景はヘクターの心になんのひと匙すら揺らぎを呼ぶこともなく、ただ明日留守を任されることへの答えがいつもらえるのか、とただそれだけを考えていた。
「ヘクター、私は、この景色をとても美しいと思うのだ」
「はあ……残念ながら、オレにはそれはよく分かりませんが」
「お前ならそう答えるであろうな。何、確かに風景として美しいと胸を打たれるものもいるだろう。だが私が言っているのはそうではない。この街の明かりは民たちの生きている暮らしの明かりだ。このバレンヌで生きるものたちの姿が一つ一つは小さくとも集まってこのように幻想的な風景を作っている。人々の生活がこの風景なのだ。私はそれが美しいと思う。それを……私は守りたいのだ」
「だからオレにここに残れと? この街を守れと仰る?」
「お前に頼みたいのだ」
「……ヴィクトール様を守れなかったオレにそれをお命じになるんですか」
「あれは戦士として戦い、アバロンを護り、そして敗れたのだ。お前も分かっているだろう」
「ですが……いえ、はい」
これ以上ヴィクトールの死を汚すことはヘクターには出来ない。
戦士が戦い敗れた。この街を護って。
視線は自然と、レオンが美しいと、守りたいと言ったアバロンの市街を向いた。
ひゅう、と風がヘクターの額を撫ぜるように吹く。
己のことに置き換えてみれば容易に分かる。戦い散ったことを悲しまれるのは、全ての力を懸け戦ったことを侮られると同じ事。そのような辱めを許せるはずもない。戦士としての矜持が折られるのはあまりに屈辱だ。そうであれば、戦場で潔く散りたいものだ。それを果たしたヴィクトールのことを、何も、ヘクターは言えない。
ただ、その隣で戦っていたというのに共に散ることも出来ず、また一矢報いることも出来ず、その弔い合戦に随行出来ないことを、悔しく思う。
「レオン様、それでも強請ります。オレだけでも連れて行って頂くことは出来ないですか」
「他の者では意味が無い。お前がこの街を守れ。お前でなければ安心して行けぬ」
その重い信頼を、嬉しく思う気持ちと、戦いの場に伴えない悔しさが同じだけ重くヘクターの胸の内に積もる。
「傭兵風情にそんなこと言って良いんですか?」
「お前はただの傭兵では無いだろう。これでも戦士を見る目はあるつもりだぞヘクター。また、同じことが無いとも限らん」
あえて軽い調子で問い掛ければ、思わぬ重さの声が届いた。
レオンの指先が欄干を削るように握るのが見える。視線は街に向けたまま、その先を鋭く睨んでいる。
「……陛下がいない間に寝返るかもしれませんよ、クジンシーにアンタよりも金を積まれて」
「私も随分と舐められたものだ。ヘクター、お前は自分自身の信じた〝強さ〟を捨てるのか?」
「……いいえ」
ヘクターがレオンの元で武働きをしてきたのと同じ時間を、レオンはヘクターを従えてきた。
軽口を許される程の信頼と時間は確かにヘクターのフリーファイターとしての義をレオンに持っている。
だからこそヘクターはレオンの腕を見て主と決めこの国にいる。
傭兵は金で動く雇われ兵だ。
だが、それだけではない。
その〝それだけではない〟ことをレオンは汲み取り主としてヘクターを正しく使ってきた。
剣を思い切り振るえる環境はそれまでのどこよりも一等居心地が良かった。
「ではお前に、明日はこの城を、街の警備を任せるぞ」
「はい」
片膝を立てて最上礼をするヘクターに、レオンは一つ頷いた。
「下がって良いぞ」
「……陛下はお戻りにならないんですか」
「ああ、今少し……この街を……見てから戻ることにする」
レオンはそう言って顔を市街地へ向ける。表情は見えないが彼にとっての美しい風景を見ているのだろう。
「お一人になんて出来ませんよ。護衛として置いて下さい」
「好きにせよ」
ヘクターは無言で頭を下げる。
レオンはそれ以降ヘクターを振り返らず、変わらず明かりを灯す街を、そして満月と星々の煌めくビロードのような濃紺の空を眺めていた。

どれほどにそうしていただろう。月の位置はわずかに傾いたかもしれないし、全く動いていないようにも思える。その周りの星などは余計にずっと同じに見える。
自らここに残ると言った手前今更に辞す事も出来ない。だが護衛など数える程しかしたことがないヘクターにとってこの沈黙の続く時間は退屈でもあり、手に余る時間でもあった。
風景を愛でるにも愛で方など分からない。何が楽しいのかも分からない。会話も得意とは言えぬ性分であったから、場を和ませるようなことを言って繋ぐことも出来ない。
出来ることを考えれば、星の数を延々数える事だろうか、と空を見上げた時。
「ヘクター」
「はい」
深く思考が沈む前に、レオンはヘクターを呼ぶ。
「お前はジェラールをどう思う」
「どう、とは」
「お前から見たジェラールの印象……といった所か」
急に息子のことを問いかけられ、ヘクターは声を詰まらせる。
「ジェラール様、ですか」
果たして素直に口にしても良いのかヘクターは思案する。
レオンは不敬であるからと暴君のように斬って捨てることは無いだろう。
しかし良い感情ではないものを聞くというのも内容によっては腹に据えかねる可能性もある。
だがヘクターはここで躊躇するような人間でもない。
「一言で言うなら甘いです」
「ほう、お前にとってジェラールはそう見えるか」
「……ずっと不思議に思ってました。なんで今更、ジェラール様を連れ回してたんです?」
「不思議がられても致し方あるまい。今更と言ったな。だが今で無ければならなかったのだ。……これから、世の中は変わるぞ、ヘクター」
「はあ?」
「ジェラールのことを頼む」
「……まあ、レオン様がいる限りは、オレはここで剣を振るいますよ。オレにあの方を守れというなら守りましょう」
「いいや、そうではない。この先……私が私として居なくなったとしても」
「縁起でもない事を言いますね」
死ぬつもりですか、とは言えなかった。だが明日に弔い合戦を控えている今、まるでそれは死にに行くと言っているように聞こえた。
レオンは微笑んでいる。その目が先を促したのでヘクターは口を開いた。
「先ほども申し上げましたが、ジェラール様は随分と甘い方だ。それはずっとお変わりない。剣ではなく本をお持ちの方がよほどお似合いだと思いますけどね」
「では賭けるか。ジェラールがお前の目に敵うか、否か」
「賭け、ですか」
レオンの口から出るには〝賭け〟という言葉は馴染みが無さすぎるものであった。
そして〝賭け〟の内容は酷くあやふやである。あまりにもヘクターに有利過ぎる。
「お前の目に敵えば、その腕を振るえ。お前が認めたならジェラールと共に戦え。お前の目に敵わぬのであれば捨て置けば良い。……だが、あれも私の子。このバレンヌの皇帝の血を引いた、賢い子だ」
レオンは自信ありげにヘクターに笑んだ。
「頭が良いのは認めますよ。だがそれだけで皇帝が務まりますか。そしてオレは別にアンタの皇帝としての素質なんか見ちゃいなかった。オレがアンタに従うのはその腕が……アンタが強かったからです。ご存知でしょう」
「そうだな、そうであろう。だが我が息子を侮るな。必ずお前の目に敵うであろう。そうだな……この城を賭けても良いぞ」
「……そりゃあまた、大きく出ましたね」
「賭けで大きな利益を得たければ、それなりのものを用意せねばな」
ヘクターは賭けのテーブルに乗せられたものの巨大さに驚いた。それだけの自信があるようだ。とても釣り合いの取れるような賭けとは思えなかったが、レオンにとってはそれほどジェラールという息子は目をかけるだけの男であるらしい。親の欲目というものなのかもしれないが、ヘクターにはその親の気持ちも、それからジェラールの評価の高さも、全く分からなかった。
楽しげに告げたレオンは、年齢にそぐわぬ若々しい笑みをその顔に浮かべヘクターを見る。その顔の皺だけが年齢を感じさせた。
「逃げるか?」
「逃げませんよ」
反射的に言葉を返す。逃げという言葉はヘクターに無い。最後まで前に向かい剣を振るうのを好む男だ。レオンもそれを承知しているのだろう。笑みは深くなった。
「では頼んだぞ、ヘクター」
「……かしこまりました、皇帝陛下」
はは、と快活な笑い声が響く。理解の範疇を超えた賭けに表情をうまく作れないままヘクターは頭を下げた。そして次に顔を上げた時のレオンの顔をよく覚えていた。
レオンに仕えると決めた時に見た顔と同じであった。

  4

翌日、ソーモンへと出陣する皇帝一行をヘクターは見送った。
その出陣は実に華々しく、馬にまたがった皇帝の勇猛な姿に沿道に集った民衆たちの熱狂と言うに相応しい声援を受け取り戦いへ赴いていく。喪った皇太子の報いを卑しきモンスターに身をもって晴らさせるという気概を兵士の一人一人が持ち挑んでくような決意に満ちた行軍であった。

――だが、その華々しい出陣の記憶が新しいその日のうちに皇帝の軍はアバロンへ帰り着いた。
瀕死の皇帝レオンと共に。
持ち帰ったものは勝利では無かった。

   †

ヘクターは勢いのまま城内を進む。
もたらされた知らせをこの目で見るまで信じることなど出来ず、周りの制止を文字通り振り切り階段を歩み、普段入ることをほとんど許されない皇族の私室の前まで辿り着く。遅れて彼の後ろにはアンドロマケーがヘクターを留めようと追いかけてきて、しかし終ぞ留める事を叶えられなかった。
固く閉ざされた両開きの扉。その前に政務官たちが集い、側仕えたちが不安げに扉の向こうを眺め、その後ろに今朝レオンと共に出陣していった親衛隊の主要な顔ぶれであるベア、ジェイムズ、テレーズの姿があった。
見知った姿を見つけたヘクターは荒々しく歩を進めジェイムズの肩に手を乗せたった一言問う。
「おい、本当なのか。レオン様が……」
ギッとジェイムズの視線がヘクターを射貫く。
「その先を口にするなよヘクター」
固く握り込まれた拳が震えている。
「本当よ、ヘクター」
涼やかな声が通る。ぴんと伸びる背筋が美しいテレーズは静かに告げた。
「今は、ジェラール様と……お過ごしになっているわ」
そうして視線は閉ざされた豪奢な扉を向いた。
あの扉の向こう側。ヴィクトールが死んだ時と同じくらいに人の生気を失ったレオンがいると言う。
弔い合戦は、死体を増やすだけに終わった。しかも皇帝をも失おうとしている。
その事実は、ヘクターにとって意外なことに、思いの外、落ち着かないような、無念のような、自分の知っている言葉で表せない気持ちをその胸に訪れさせた。
次いで訪れたのは悔しさだった。なぜ無理にでも共に行かなかったのか。一度は不服を申し立てたのだ、やはりあの時に引き下がり妙な賭けなどせねば良かった。戦士としての仕事を何一つ全う出来ていない。
舌打ちをしながらジェイムズの肩から手を離したヘクターは振り返ると一番近くの壁に近寄る。
ガツ、と鈍い音を立てて壁を思い切り殴った。鼓動と同期するようなじくじくとした痛みが拳の先から腕に上る。
「ヘクター! あんたねえ! 悲しいのはわかるけど物に当たるんじゃないよ!」
そばにいたアンドロマケーが悲鳴のような声で怒鳴るが気にもならない。
「悲しい? 馬鹿言うな」
戦士が戦場で信念のため戦った結果深手を負い今その命を散らそうとしている。それを悲しむのはあまりに馬鹿げている。
ただ一つ、もうあの人の元で戦えないことが悔しい、そしてその死線に伴えなかったことが悔しいだけだ。
自分の力を過信するわけでもない、ヘクターは正しく自分の力量というものを知っている。だがレオンが深手を負う前に一度や二度は盾にだってなれたはずだ。何か変わることだってあったのではないかと思ってしまう。
「……くそっ」
腕を組んで背を殴った壁に預ける。
少しでも頭の中を整理しなければならなかった。
(……レオン様が、死ぬ、だと? ……オレは、どうする)
あの日――ヴィクトールをこの国が亡くした時に感じた崩壊の足音。
その足音が、ごく近くで鳴ったような気がした。
ヘクターの勘は見事に当たっていたことになる。
「ヴィクトール様を亡くしたばかりだというのに、へ、陛下も……アバロンは一体どうなってしまうというのだ……!」
一人の若い政務官がうろうろと扉の前を落ち着きなく歩き回っている。不安に押しつぶされそうになっているのを隠せぬほどに余裕が無いのだろう。
なにもその者だけでなく、特に非戦闘員である政務官や側仕えたちは一様に戸惑いをしまいきれずにさわさわと何事かをささやき合っている。
その時、固く閉ざされていた扉が片側だけ開く。重たそうに開くのは内側からこちら側に出てこようとする男の非力さが物語っているようでヘクターの何かを逆撫でにしていく。
「ジェラール様!」
控えていた若い政務官の一人が叫びながらジェラールへ侍る。
扉から出てきた姿は、レオンよりも低い背丈、同じだけの色をした髪、瞳。その目元は赤くなり擦ったのだろう腫れていて痛々しく、また儚げに見せた。
「……父上は、逝ったよ。私にあとを、と」
「は、い……」
震えた声で告げた言葉に、分かっていたことだというのに決定的になってしまった皇帝の崩御の知らせは慟哭を産んだ。
肩を震わせて官服のたっぷりとした袖で顔を隠した若い政務官は膝を付き頭を垂れた。
そっとその震える肩に手をやるジェラールは幼子をあやす様にぽんぽんと優しく叩く。
啜り泣きが響いていく。悲哀の波が広がるようだった。
その中で、老齢の政務官が一歩、二歩、と前に出る。わずかな衣擦れと共にジェラールの前まで進みあと三歩ほど手前で止まると両膝を付き官吏の礼を取る。
「新しき、皇帝陛下のご即位……お慶び、申し上げます」
老齢の政務官が震えた声で即位を言祝ぎ頭を垂れた。
彼が発した声に倣い集っていた政務官たちが同じ様に頭を垂れる。その中にはジェラールにすぐ侍った若い政務官もジェラールの横で同じように頭を垂れていた。
「うん」
それにジェラールは短く答える。
混乱の中、若い皇帝が立った。
だがそれはあまりにも不安定で、先の見えない思いを多くの者たちの胸に降り積もらせる即位であった。
そして運命は人々を試すかのようにこの帝国をその残酷な手で撫で摩る。
――変化とは、坂を転がり始めれば次々と襲い来るものだ。
カーン カーン カーン
遠くで鐘が三つ鳴る。
ヘクターの耳はその音をしっかりと拾った。それはその場に居た兵士たちもまた同じであった。皆顔を上げ残らず窓の外を伺おうと動く。
そしてすぐに階下が騒がしくなるのをその場の非戦闘員も含めた皆が捉えた。自然と視線は階段の方向を向き、音の導きと同時に兵士が顔を真っ青にして駆け付けジェラールの前で片膝を付く。
「火急にて御前失礼致します!」
「よい、どうした?」
「ご報告申し上げます! ゴブリンが街に攻め入って来ました!」
それだけで場に緊張が走った。小さく悲鳴も上がっている。
「なんだと!?」
「このような時に限って……!」
「ああそんな、アバロンはどうなってしまうのだ!」
皇太子の死、皇帝の死、新しい皇帝の即位、モンスターの侵略。
一つも処理をしきれぬ内に立て続けに起こる変化に人々の心の内は類を見ない程に荒れていた。
その中、報告を受けた瞬間のジェラールの顔を、ヘクターはたまたま見ていた。この状況をどうするのかを見定めるように、ヘクターはその姿を視界に入れ続ける。
ジェラールは一度瞼を閉じた。それから瞳を開くと先ほど出てきた扉を振り向き何事かを囁いていたが生憎と距離がありすぎ聞こえなかった。
「落ち着け!」
凜とした声が場に通る。
扉を背にして、若き皇帝が堂々と立ち、声を行き渡らせるように視線をぐるりと場に巡らせた。
一連のジェラールの姿はそれまで慌てふためき混乱に陥るしか無かったものたちをはっと立ち返らせた。
「詳細の報告を聞こう」
先ほど報告に現れた兵士にジェラールが状況の詳細を問う。
「は、はい! 現在ゴブリンどもは昨日の襲撃の際崩壊した城門より侵入、街を略奪しております」
「他の被害の程はわかるか? 住民たちはどうしている?」
「まだそこまでの報告は上がっておりません」
「そうか……分かった。ありがとう。私が出よう」
言うが早いか、ジェラールは側仕えを呼び剣を持ってくるように指示している。
「ジェラール様! あなた様がお出になるというのですか!?」
これに一番に声をかけたのは一人の若い政務官であった。かわいそうな程に顔を青白くし恐怖に滲んだ声であった。
「私が行かないでどうする? ――ジェイムズ、ベア、テレーズ、行けるか」
「はい、陛下」
「すぐにでも」
「もちろんでございます」
むしろ声をかけられることを待ち望んでいた、とでも言うかのように名を呼ばれた三名は即座に答える。
戦の匂いが場に立ちこめる。
目の前で整いつつある出陣の気配にかの政務官は視線を右へ左へと移し戸惑っている。
そして目を思い切り瞑ると躊躇をしながらも言葉を紡いだ。政務官として、皇帝へと。
「……では、では、せめて……腕の立つものを一人でも多く、お連れ下さい!」
ジェラールに慈愛の満ちた目を向けていた若い政務官が立ち上がると眦を釣り上げて全く違う声音で叫んだ。
「ヘクター! お前も随行しろ!」
名を呼ばれたが、ヘクターは腕を組んで壁に背を預けたまま、応える様子を見せない。
「おい、ヘクター! 聞いているのか!」
「……ふざけるなよ」
低く呟いた声を聞いたのはすぐ隣にいたアンドロマケーだけだった。
「なあ、おい」
顔だけ上げたヘクターが地を這うような低い声を発し政務官を視線で射貫く。その圧にたじろいだ政務官は一歩後ずさる。
「勘違いするなよ。オレの雇い主を誰だと思っている? オレが仕えていたのはレオン様だ。ジェラール様に付き従う理由は無い」
「な……っんだと、きさま!」
ヘクターは政務官を無視しその向こうにいるジェラールを見る。
「レオン様は強い男だ。オレはその姿を見てついて行く事を決めた。アンタみたいな甘い奴には到底従えない。そのアンタが皇帝、か」
笑う気が無くともヘクターは笑えた。この、甘い男が、次の皇帝だと?
「帝国も終わりかもしれねえな」
さあどう出るお坊ちゃん。
そうしてヘクターが無感情にジェラールを見ると、ジェラールは真っ直ぐにヘクターを見ていた。ひるむこと無く、ただまっすぐに。そして泣いて赤くなっている目を細めて笑んだ。
「そうか、わかった」
「ジェラール様! このような、このような無礼な者の言うことを聞くと言うのですか!?」
「いいんだ、ヘクターの言う通りだろう。別のものを連れて行こう」
「ですがこのまま貴方様まで……!」
「大丈夫だ、任せろ」
言い募る政務官の肩に片手を置き笑っている。これから死にに行くようには見えなかった。
声は変わらずに、あの優しいお坊ちゃんのままだと、ヘクターは思った。だがどうしてか、これまでのようになよなよとして頼りない男、優しい者に囲まれてぬくぬくと育った愛された皇子ではなく、一人の指導者として背筋を正した男がそこにいると、思えた。
だがそんなもの、今だけかもしれない。そもそもこのお優しく守られていただけのものが先頭に立ち戦う姿をうまく想像する事すら出来ない。たったの一度何かを見直す機会が訪れたとして、この先を保証するものになると思えるはずもない。
「……ヘクター」
外れたはずの視線がまたヘクターに戻ってきた。
名前を呼ばれたが声は出さない。ジェラールの背後で政務官が怒りの表情でいた。まるでジェラールの代わりに怒りをあらわにしているようで滑稽だった。
「きみは帝国がもう終わりかもしれないと言ったね。では一つ頼まれてくれないか。見届けることを。この国が本当に終わるのか、どうかを」
どうしてこの国の皇帝は、たかだか傭兵に重たい物を渡そうとしてくるのだ、とヘクターは呆れる。
「嫌ですよ。一体いつまでここに居なきゃいけないんです? 他のもっと、アンタの言うことを聞きたい人間にそれを頼んでください。オレはその仕事は受けない」
「そうか、では私がゴブリンを倒して戻ってきたら、暫くの間この国に留まってくれ。この後、ソーモンへ打って出る。その時までで良い。それではどうだ? 父上の代わりが私に務まらないと思ったら出て行ってくれて構わない。だけど私はきみの強さを買っている。その腕を貸して欲しいから留まってほしいんだ。どうだろうか?」
「……たかだか傭兵風情と、賭け事にでも興じたいんですか、〝陛下〟?」
皮肉たっぷりに尊称を使うとジェラールもくすりと笑った。この男は侮られるということを知っているのだろうか。
「そうだな、賭けだ。では賭け金はきみの報酬を倍にしたものとしようか。出て行きたくなってしまったならそれを支払おう」
しかしその響きは実にヘクターの急所を巧く突いた。金額の話ではない。〝賭け〟の話だ。
たったの昨日だ。たったの、時間に戻してしまえば十数時間だけ前の、昨日の夜のことだった。
――『では賭けるか。ジェラールがお前の目に敵うか、否か』
皇帝レオンの声が聞こえてくるようだった。
「……その賭けをお受けしましょう」
ヘクターが答えればジェラールはにこりと笑う。この男はこれから戦場に行くことを分かっているのかと疑いたくなるほどに晴れやかな顔をしていた。
間も無くして出陣の準備は整う。硬質な戦場の空気が蔓延していった。
「ではヘクター、行ってくるよ」
そう言って戦場に繰り出す皇子の……いや、今やこのバレンヌの若き皇帝となったジェラールが兵を連れて背を向ける。
ヘクターは何も言わずただ城の壁に背を預け、腕を組んで目を伏せた。
「ジェラール様の……」
ぐ、と兵士が唇を噛む。
「皇帝陛下の! 御出陣! 御出陣!」
声を合図にざ、ざ、ざ、と新たな皇帝へ付き従う兵士と親衛隊の足音が遠ざかる。
まっすぐと前を向き出陣するジェラールとは趣が違い、ジェイムズを始めとする親衛隊の面々はヘクターに厳しい目を向けていた。
階段の向こうへ彼らの姿が消え背も見えなくなると、アンドロマケーが何か言いたげにヘクターをつつくように視線を寄越す。
「ヘクター」
アンドロマケーがヘクターを呼ぶが、彼は片目を開けてその様子を見ていただけだった。
「……ねえ、今からでも遅くは」
「下手なことはするな」
「あんた……!」
「アンドロマケー、分かってるな? 聞いてただろ。オレは皇帝陛下と賭けの最中だ。ナメた真似をするな」
「でもさ」
「オレにはオレの雇い主を選ぶ権利がある」
「この帝国がお前の雇い主であろう!」
ツカツカと靴音に怒りを乗せてヘクターに詰め寄る者がいた。あの若い政務官だ。ジェラールの出陣を見守っていた頼りない背中とは違いその顔には堪えきれない激情をたたえている。普段の彼であればヘクターに物申すなど土台無理だろう。だが彼の中のその線をヘクターは今無自覚に超えたのだ。
周りの残った他の政務官やメイドをはじめとする非戦闘員の視線を集めていることに腕を組んだまま嘆息する。
「いいや違うね。オレはオレの腕を預けるに足る者にしか仕えない。その代わり……あのぼんぼんがオレの腕を預けるに足ると思えれば、オレは敬意を払ってやるよ。雇い主には噛みつかない。なあ、お前」
「なんだ!」
「お前が仕えているのは国か? レオン様か? あのぼんぼんか?」
「そんなもの! このバレンヌ帝国、それはレオン様にお仕えしていたことであり、ジェラール様にお仕えすることだ!」
ハ、とヘクターは笑う。
「そうかよ」
それきり何も言わなかった。
「ヘクター!」
だが政務官はまだ話が終わっていないとでも言いたげにヘクターの名を叫ぶ。
「随分と必死だな。……ああ、このまま皇帝が死ねばお前も大変だからか」
「ふざけるな! ジェラール様のお命が、大事に決まっているから心配なんだ。お前などと違って、ジェラール様は……ジェラール様は! 私のようなものにさえ希望を与えて下さる方なのだ!」
興奮して叫び続ける政務官は肩で息をして、それでもなおヘクターを睨みつけている。
「お前など、居なくても良い! お前よりも腕の立つものが付いておるわ! お前などを供にせんで正解だ! ジェラール様ならばやり遂げて下さる!」
あれだけしつこかったかの者はくるりと背を向けて階下へ下がっていった。言いたいことを言って満足したのだろうか。
気付けば他の者たちも各々の持ち場へ戻り始めている。この場所に留まり続けている理由は無く、ヘクターも己にあてがわれた兵士待機所へ戻るつもりで階段を降りていく。
しかし途中で普段と違う騒がしさに気がつく。その答えは階段を一段降りていくごとに理解した。
城の入口から街の住人が続々と城内へ避難してきているのだ。そのほとんどは女子供である。
普段は人も見張りの兵士と下級使用人たちが行き交うのを眺める程度であるため広く感じていたが、床が見えないほど人が溢れるまでになっている今はやけに狭く感じる。
怯えているものが大半で、城で働く者たちがめいめい忙しなく働いて誘導に当たっている。その中にはあのヘクターに突っかかってきていた若い政務官の姿も見えた。
「希望、ね」
先ほどヘクターに吠えた若い政務官の言葉が思い出される。
ヘクターの知らないところでジェラールに助けられたことがあったのだろう。そういうことがあるだろうことは分かる。だがそれはヘクターには関係のない話だ。
ヘクターが主と認めるか否かは、ヘクター自身のものさしで決まる。
あの政務官があの政務官のものさしでジェラールに仕えることを選んだように、ヘクターもヘクターのものさしで、ジェラールを測っている。
だがヘクターとてただの好き嫌いでそれを測っているのではない。
命のかかった選択だ。

   †

その時が来たのは、存外に早い訪れであった。
わあ、と城の入口で歓声が上がったのを、ヘクターは兵士詰め所で聞いていた。
「ジェラール様がお帰りになったぞ!」
バタン! と乱暴に開け放たれた扉は詰め所のテーブルで頬杖をついていたヘクターの視線を上げさせることには成功した。
そこには勝ち誇った顔のあの若い政務官が居た。
「額を擦り付けてジェラール様に許しを乞うが良い!」
大変に晴れやかに、大声で笑いながら去っていく彼は、しかし、目を真っ赤にして瞳からいまだに涙を流し続けている。先ほどの勇ましい声とて、勢いだけは良かったが、溢れる涙の影響で鼻詰まりをした大変聞き取りにくい声だった。
お祭り騒ぎの様相に、テーブルの向こう側で同じように待機していたアンドロマケーが楽しげに笑った。
「さて、それじゃあ行こうか」
「言われなくても」
席を立った二人のフリーファイターは扉の向こうへと進む。
そこには熱気が充満しており、民たちの熱狂とも言える声が幾つも幾つも重なっていた。
「ジェラール様万歳!」
「バレンヌ帝国万歳!」
その声はどんどんと近づいてくる。
それもそのはずで、その声を受け入れる皇帝の一行が近づいて来ているからである。人垣の一番外側から目を向けるとそこには傷だらけのジェラールと、彼と共に出ていった同じように傷を負った戦士たちがあった。だがその顔は晴れやかだ。何ごとかを話しながら階上を目指し進んでいる。
しかし急に緊迫した叫び声が上がる。それと同時に人の波が割れ宮廷魔術士の一人が焦り顔で走り寄って行った。
術の行使を物語る眩い閃光が弾けきらきらと輝く水の雫が降りかかる様子が人の波の向こうに見える。
また歩みを再開した一行が階段の向こうへと消える。
階段の前には民たちが押し寄せ兵士が束になってその行く手を阻んでいた。
「こっちはどうも無理そうだねえ」
アンドロマケーは肩をすくめ、ヘクターは無言で上階へ上がるための別の階段を目指すことになった。
二階に辿り着けばそこはまた別の熱狂が宿っていた。
兵士たちは喜び合い政務官やメイドたちも晴れやかな顔で玉座の間へと視線を注いでいる。
そこへヘクターは遠慮なしに進む。
ジェラール皇帝とヘクターのやりとりを見ていたものが大半のこの場所で、ヘクターが歩いているのを見たものは好奇心の塊のような視線を投げるものが半分、蔑むような視線を浴びせかけるものが半分であった。
勢い切って玉座の間の前まで到達すると当たり前の様に扉の前を守る兵士に止められる。
「ジェラール様に用がある。通せ」
「そのまま待て」
「用件は言った」
「あ、おいっ!」
兵士を扉の横へ追いやりヘクターはそのまま侵入する。
扉が急に開いたことにより、中にいた者たちの視線は当たり前のようにヘクターに集まった。
ヘクターの後ろではアンドロマケーが楽しげに笑っている。
「……これはまた随分と強引に来るね、ヘクター」
のほほんと言葉を発したジェラール。
「貴様! この後に及んで礼を弁えないとは不届き千万! 今すぐ連れ出せ!」
怒りをそのまま声に乗せて払うように腕を横に振ったジェイムズがジェラールの斜め後ろから叫ぶ。
「ジェラール様以外に払う敬意なんざ持ち合わせてませんから」
玉座の前のきざはしまで進むと、ヘクターはその場から上を見上げる。
ジェラールの目元がきらりと輝く。
「待て、皆。……ヘクター、きみの話を聞くよ。今呼びにいかせようとしていた所だったしね」
「約束は約束です。オレはアンタのことを侮り命に背きました。いかような処分でもお受けする覚悟です」
するとヘクターはすぐにその場に膝を折りジェラールに首を差し出すよう深く頭を下げた。
共に来ていたアンドロマケーも、それにならうよう片膝を付き頭を下げる。
その態度に驚いたのはジェラール以外の全員である。
レオン以外の前で、ヘクターがこのような殊勝な態度を取った所を見たことが無かったからだ。
それも、この様な他の人間の目が数多ある状態で、である。
「そんな覚悟は要らないよ」
「ジェラール様!?」
それまで勝ち誇った顔をしていたかの政務官、それにジェラールの背後に控えていたジェイムズも驚きの声を上げる。
片手で制したジェラールはヘクターに顔を上げるよう迫った。
「顔を上げてくれ。きみは賭けに負けたわけで、私に従いたいという事じゃ無いよね」
「オレはオレの矜持を持ってあの提案を飲んだんです。それを果たされたのであればオレは約束は守ります」
「頑固だね」
「アンタほどじゃない」
ふ、と口元を和らげたジェラールは玉座に座り直す。
「私の望みはひとつだ。先ほども言ったがこれからソーモンへ打って出る。戦力が欲しいんだ。きみの同行を求める」
「御意」
「それから決めてくれてもいいが……出来ればその後もバレンヌに仕えてくれると嬉しいのだけど」
「オレは一度言ったことを曲げませんよ」
「では私も精進しよう。きみに見捨てられないようにね」
「そうしてください」
「きみって本当に正直だね」
「……一つ言います。アンタ下のものに対する腰が低すぎる。そんなんじゃ付いてくる人間なんかたかが知れてるからやめた方が良いですよ」
「肝に銘じよう」
「そういうところを直した方がいいと言ってます」
にこり、と笑みを返してきたジェラール。
「直すつもりが無いからね」
訝しげに目を眇めると、笑顔のまま宣った。
「私は私のやり方で、やってみるってことだよ。けれど先ほどきみが言ったことも一理あることはわかる。ちゃんと使うところは使うさ」
少しの困惑がヘクターに忍び寄る。
「アンタ……」
この男は誰だ。ジェラールという男が、今ゴブリンの殲滅を終えた途端に別人に見える。
ジェラールは変わらぬままの笑顔をヘクターに向けた。
困惑を持ったままのヘクターだったが次に聞こえた声に表情が固まる。
「では」
玉座の肘掛けにあった両手に力を込め立ち上がったジェラールは強い怒りをその瞳に乗せ似つかわしくない低い声で宣言する。
「行こうか、ソーモンへ」
そこに甘い男はおらず、皇帝がただ、立っていた。

じゅうぶんおとな。