帝国私記-獅子の眠る国【4万文字サンプル】

第三章 戴冠式

街全体が浮き足立っている。
それもそのはず、明日この帝都アバロンで戴冠式が行われるのだ。
式の三月みつき前に発表されたその知らせは城下町に歓喜の渦を巻き起こし、帝都アバロンを出て街へ村へと伝播していった。
これを商機と見て人々は続々アバロンに訪れた。もちろんこの祭の気配に人生に一度は帝都をこの目で拝みたいと足を伸ばしてきた田舎者も数多訪れ、戴冠式当日が近づくにつれてアバロンは人で溢れ連日宿は満室、急遽飲食店の一部を宿へと変更したがそれでも足りない。役場の共有場所を提供されて雑魚寝する場所を作ってもそこも埋まっていった。
予想を上回る事態に式の管理者は真っ青になりながらも……嬉しげに準備と対応をしていた。
この国には、やっと慶事を喜べるだけの力が戻ってきたのだ。
民達の笑顔、商い魂の逞しい商人達、それによって運ばれる物珍しいもの、人が増えたことで諍いも増えるが、総合的に見てこの賑やかさは歓迎されるものであった。
ヴィクトール、そしてレオンの死はこの国に暗い影を落としていた。さらには帝都アバロンにモンスターが侵攻するという恐怖に民達が震え上がった事件も記憶に新しい。
それを払拭するかのような、この祭の知らせは皆歓迎しているのだ。
華やかな催しは人々を笑顔にさせた。

「ああ、良かった」
薄暗い路地で一人の青年がぽつりとそんな言葉を漏らす。
柔らかに緩んだ目元は賑やかしい街を、愛おしそうに眺めている。
襟足の長い樺色の髪を風に遊ばせて、ぱっと見れば簡素な生成り色のシャツと同じ色合いのズボンを纏い、そこらの民と同じように紐で腰元を絞めている。――だが、見るものが見ればその衣が民草ではおいそれと手のでない品であると見抜くだろう。
それよりも先に、その品の良い立ち居振る舞いから卑しい生まれでないことを察するものもいるだろう。
青年の名はジェラール。
このアバロンに生を受け、そして……もう明日に迫った戴冠式で、その頭上に金の冠を戴く者である。
「報告は聞いていたけれど……やはり、今後は私ももっと街へ出るようにしないと」
予想を超えて、混乱が起こっているという報告がジェラールの耳に届いていた。人が集まるのでは致し方のない諍いは大なり小なり頻繁に起こっている。また詐欺や盗みも起こっていて、検挙は残念ながら追いついていないのが現状だ。街の防犯も考えていかねばなるまい、と山積みの政務に更に上乗せしていく。
そのような状況の中……しかも式を明日に控えている大切な前日だというのに、街にたったの一人で降りてきてしまった皇帝陛下は路地から街の賑わいを肌で感じとり顔を綻ばせた。
この国には悲しいことが立て続けに起こった。だが悲しみに暮れる間もなく傷ついた街や人、そして国を立て直すために奔走し、ようやっと国として喪を開け、大々的に祝いの場を設けることができたのはひとつ成功であると言えるだろう。
疲れの色濃い城の優秀な政務官たちには申し訳ないが。
だがジェラールとて指示を飛ばすだけではもちろん無い。彼でないと決裁出来ないものは山のようにあり、解決すべき問題も積み重なって見上げる程、そして城の中だけに収まらず、時には皇帝御自ら討伐へ出陣することもある。
それでも〝尋常でない〟処理能力で、ジェラールはこなしてしまう。それは彼個人の突出した能力であり、知恵の結晶によるものであった。そこに更にはレオンの記憶が手伝って、〝第二皇子ジェラール〟の意識の抜けぬ政務官が〝皇帝ジェラール〟の言に慌てふためいたことも大いにある。
だが一番〝第二皇子ジェラール〟の意識が抜けなかったのは、兵士たちや将軍職を得ている戦を司るものであろう。
戦うことが嫌いだと口にしていた過去は尾を引いてジェラールを侮らせた。
かの父帝レオンの仇討ちにソーモンへ赴き七英雄の一角、クジンシーを下したが、凱旋時こそ熱の籠った咆哮を上げていたというのに、そこへ伴わなかった兵士たちは時が経ってから妙なところで冷静になってしまったのだ。
「きっと共に連れて行ったジェイムズ隊長や、狂戦士のヘクターの後ろに隠れて震えていただけに違いない」
そう、囁かれ始めたのだ。
それほどにレオンの信奉者は多く、いくら息子とはいえ、武勇の誉高い亡くなった兄皇子、ヴィクトールであれば素直にその武働きを認めたが、本を抱えて勉学に励み戦いは嫌いだと言いながら剣を頼りなく振るっていた姿の方が、彼らにとってはあまりに馴染みが深すぎたのだ。
しかしそれも、また時が経つにつれ鳴りを顰める。
最初はほんの小さな変化。ジェラールが先頭に立ち近隣のモンスター討伐を勢力的に行い、領地の平定を推し進めれば推し進めるほど、ジェラールの戦う姿をその目で見るものが増えれば、「レオン様の仇を討ったのは間違いなくジェラール様なのだ」と口にするものがちらほら増える。
それを聞いて「何を馬鹿な」と取り合わなかった手合いも、ジェラールの戦いに同行すれば手のひらを返した。
返された手のひらの分、それはどんどんと勢いを増す。
それは当たり前なのだ。一度でもジェラールの近くで戦ったものたちは、戦いを褒められ、戦の同行を労われ、レオンの時と同じく……いいや、それよりも良くなった褒賞を手にした。
今ではむしろジェラールに心酔する兵士の方が多くなった。
ジェラールが兵舎に顔を出せば大歓迎をされるが、ジェラール自身はやっと打ち解けられて良かった、くらいにしか思っていない。
最初に認めていないのを隠しもしない兵士たちの態度にやきもきしていたベアやジェイムズは何度怒鳴ったか分からなかったが、それでもジェラール自身がそうして勝ち得た信頼に胸に誇らしさを持っていった。
これまでの一年を思い出しながら、その一年の間に得た活気が溢れる人々の様子を飽くことなく眺めて目を細めていたジェラールは、その先に見知った姿をみつけてそっと近づいた。
小さな背中を追うのは簡単だ。ジェラールの方が足が長いのだから、追いつける。
「やあ、久しぶりだな」
くるりと振り向いたジェラールの太ももほどにしか高さのない背、栗色の髪をおかっぱにして、一見童女のようであるが男児、いやもう少年といった方が良いだろう。
ぱちくり、と音がしそうに瞬きをして、驚いているのがよく分かった。
次いで声をかけようとして、口が開いたまま止まった。
「あの、お兄さん、ぼくなんかした?」
街へ来たのはずいぶん久しぶりだった。皇子の時代は今に比べれば気軽に街に降りていた。それが出来ぬのが皇帝という身分である。
流石に時がたちすぎ忘れられてしまったか、とほんの少しの寂しさを胸に少年と視線を合わせるためしゃがむ。
「覚えていないか。ジェラールだよ。久しぶりだな」
「……ジェラール、さま……?」
目を零れ落としそうな程に見開いた少年は心の底から信じられない、という顔でジェラールの合わせた高さの視線で訴えてくる。
「ご、ごめん、なさい、あの、なんだか……レオン様みたいだったから」
「父上みたい?」
「あっ、あのっ、ご、ごめんなさい、こうていへいか……」
「どうしたんだ? これまでと同じに名を呼んでくれないのか?」
「母ちゃんに、今までみたいによんじゃだめって」
少しだけ、息が詰まる。すぐに返したかった言葉は、情けなくも一拍遅れた。
「……いいんだ、前のように呼んでくれれば」
前もよくそうしていたように、ジェラールはまろい頭を撫でようとする。
「へ、陛下!」
「あ、母ちゃん」
「申し訳ありません! 我が子が粗相を!」
顔面を蒼白にさせ子の頭を大人の手で無理矢理下げさせる。ジェラールは何も言っていないのに、その母親の態度に戸惑った。
「楽にしてくれ、私から話しかけたのだ。皇子の時代はよく話を聞かせてやっただろう? それを懐かしんだのは私なのだ。さあ、大丈夫だから、顔をあげておくれ」
やはり皇帝という身分になれば、態度はどうしても変わってしまうのだろう。人によってはそれだけで尊大になり即位の後に悪評が高まったという歴史上の人物もいる。
だがジェラールは何も変わっていない。苦笑して言葉を繋ごうとした。
「もったいないお言葉でございます! 申し訳ございません、よくよく言い聞かせますから! どうかお許しくださいませ!」
けれども母親はほっとしながらジェラールに頭を下げ続けている。
ジェラールは沢山の言葉を飲み込んで、にっこりと笑った。
「良いのだ、街の様子を見ていただけだからね。ああ、だからどうか怒らないでやってくれないか、私が話しかけただけなのだから。良いね?」
「はい、ありがとうございます!」
「……では私はもう行くとするよ。祭りを楽しんで」
頭を下げ続ける母親と、彼女に下げさせられている子を背にまた路地に引っ込む。
そこは薄暗く人気は無い。もう少し奥に行けば路地裏に住まう者たちを見るだろうが治安はその分悪く皇子の時代にも足を踏み入れたことは数えるほどしかない。その時もやむを得ない為に入り、周りには護衛がいた。
理想は高く持つものの、まだそういった場所全てをどうにかするだけの力は無く、また完全に無くすよりは残しておく方が都合が良い面が強くそのままになっている。裏には裏の秩序があるのだ。
先ほどよりも日は傾いたがまだまだ光は眩しく地面を照らし、街の活気を輝かせる。
そこに比べると薄暗く、その賑やかさがわずかに遠のいているその路地裏で、ジェラールはただ眩しく輝く街並みを眺めていた。
「ジェラール様」
突然呼ばれて肩が跳ね上がる。すぐに声のした方向に振り向き腰に佩いた剣の柄に手を置いたところでその上から手を重ねられ押し留められる。
「オレですよ、オレ。ここで抜剣は勘弁してください」
見上げると見事な青空を背景に自由にハネる茶と青の髪、額の位置で絞められたバンダナと特徴的な片目の盾眼鏡アイシールド、鋭く睨んでいるように見える目もとが順に目に入る。
「……ヘクター」
「お戻りの時間ですよ、陛下」
「もうそんな時間か?」
「まあそろそろ帰ってください。支度の担当が青くなってましたから」
「そうか。迷惑になるのは本意では無いからな」
剣の柄から手を離すとヘクターの手も離れる。
「迷惑かけるって分かってるなら式の前日に城抜け出さないでくださいよ」
「だめだっただろうか」
「まあいいんじゃないですか」
ジェラールは笑う。ヘクターの言葉には気負いが無く、無闇矢鱈に考えすぎてしまうきらいがあるジェラールにとって、その真っ直ぐさは好ましい。
「……きみは変わらないね」
「そうですか?」
「そうだとも」
ヘクターだけではない。ジェイムズも、ベアも、テレーズも。皇子の時代と変わらぬ態度で支えてくれる。
「では戻ろうか。これからも、明日もやることはたくさんあるのだから」
「アンタがそれ言いますか」
「私は式の主役だもの」
「まあそりゃあアンタがいないと意味無いですけどね」
自分で言うか? というヘクターの呟きを耳で拾ってジェラールは思わず声を立てて笑ってしまった。ヘクターはぎょっとしてジェラールを見ていた。
ほんの少し胸に溜まっていた澱がするりと流れて行く気がした。
この男の隣は、心地いい。
ジェラールは息を思い切り吸い込む。
爽やかな風が胸を駆けていく。
今いる場所が、眩しい通りと何一つ変わらない場所だと、今度は思えた。

   †

控えの間でジェラールは鏡に映る己を見ていた。
白を基調とした上質な絹の衣装は裾から上衣に渡るまで加護を意味する紋様が隙間が無いほどに刺繍を施されている。その一つ一つに意味があり、歴史というものをこの一式の儀礼衣装で感じ取る。
しかしその伝統的な儀礼衣装は重い。とても自分に似合っているとは思えなかった。
だが同時に頭の中で記憶が〝蘇る〟。瞳を閉じた先で見るのは年若い見慣れぬ誰か。しかし同じ物がある。身に纏う儀礼衣装だ。それからジェラールに良く似た樺色の豊かな、少し癖のある髪、理知的な緑の森の瞳。順番に見つけた共通点が染み込むようにジェラールに教える。
(ああ、父上だ)
自然と閉じていた瞼を開け、眼裏のレオンの戴冠式の時の姿が今のジェラールに重なる。
先程まで似合っていると思えなかった鏡の中の己の姿を、今度は受け入れられるような、気がした。
(見ていてくださるのだろうか)
問いかけるように胸に手をやる。伝わるのは衣の手触りの良さだけで何も答えは返ってこない。
「ジェラール様、お時間でございます」
「わかった」
侍従の声に応える。行って参ります、と心の中で言う。背を向けたその鏡の前には、父と母、兄が立っている、気がした。
控えの間を出て、床にも引きずる裾がしゅるりしゅるりと音を立てる。
廊下は等間隔に兵士が立ち不動のまま右手で槍を構え左手は胸に添えられている。儀式用の兵士の礼である。
この場からもう戴冠式は始まっている。控えの間を出て兵士の廊下を歩き仕えるべき皇帝の姿を覚えさせる。そして戴冠は城の玉座の間より奥まった場所にある間にて行われる。そこは戴冠を始め皇族の婚姻、成人の儀式など限られた時にのみ開かれる。
そこは壁面に等間隔で歴代の皇帝の肖像画が掲げられており通称〝皇帝の間〟と呼ばれる。
「皇帝陛下のお成りでございます!」
皇帝の間の扉の前で控える兵士が儀礼用の深緑色のマントを翻し、皇帝の訪れを知らせる。
両開きの豪奢な扉はほとんど天井まである高さであり、その一枚一枚には職人の手で丹精に作られた装飾彫りが飴色に輝き帝国の権威を表しているかのよう。一歩潜った先の皇帝の間の天井は見上げるほどに高く、よほど目が良い者で無ければ天井に施された見事な画を事細かに見ることは敵わないだろう。
そして式典のため誂えられた王冠の鎮座する場までの儀式のための道は、毛足の長い赤の絨毯が真っ直ぐに伸び、その横を国の要人たちが埋め尽くしている。
ジェラールにとっては馴染みのあるものたちであるが、最も馴染みの深い面々はこういった場では端に追いやられるよう人の行列の角に立ち控えている。
踏みしめる赤の絨毯がその毛足の長さにより足音を吸い込んでいく。
辿り着いた儀礼台の前には、前皇帝レオンの側近であった将軍が三名、儀礼台に鎮座する王冠を取り囲むようにしてジェラールを待っていた。
ジェラールから見て王冠の右手にいる男が式の始まりを告げる。前皇帝レオンの乳兄弟であり在りし日はレオンと共に前線を駆けた勇士だ。
そして王冠の左手にいる男はジェラールを水の術で清めた。政務での右腕を務め、戦場では後方支援で活躍した彼をレオンが得意げに話していたことをジェラールはよくよく覚えている。
最後に、王冠を挟み真正面、かつて戦場でのレオンの右腕であった彼は、ジェラールの前に置かれたクッションへ膝を付くよう示す。示された通り、ジェラールは片膝をついた。その様子を見届けたあと、最後に周囲に問う。
「バレンヌ帝国第三十代皇帝レオンの指名により、天の国へ渡られたかの方に代わり宣言する。バレンヌ帝国第三十代皇帝レオンが第二の子、ジェラールをバレンヌ帝国第三十一代皇帝として認め、冠を授ける儀を執り行う。帝国の新しき星への憂いがあれば申し出よ」
厳粛な声が辺りに響き、それ以後声も衣擦れの音すらも立たぬ、まるで時が止まったかのように、その場の者は固く口を閉じ沈黙を示した。
十分な時間を沈黙で埋め尽くし、異議の無いことを確かめた後、王冠を取り囲む三名の手で捧げ持たれた金の冠はきらきらと窓から差し込む陽の光を反射する。
「バレンヌ帝国の新しき星、皇帝ジェラールに祝福あれ」
ジェラールは恭しく頭を下げ目を閉じる。
眼裏に父が見える。
それは先程、控えの間で見た幻影の若き父ではなく、ジェラールのよく知る、威厳ある父帝の姿である。
――『お前は、全てを捨ててこの力を継承する決意があるか』
あの日の問いが聞こえてくる。
はい、と情けなく涙で滲んだ顔と声で返したことを昨日のことのように覚えている。
父がいなくなる事をただ悲しむ間も無いまま、次代の皇帝として立ち、父から継承された力を振るってがむしゃらに国を守り、そして全土平定へ向け力を蓄え、七英雄を打倒するという目標を掲げ途方もない戦いを繰り返している。
その中で、今。
いつかの父と同じ衣を纏い、儀礼用の外套の裾を引き摺り、片膝をついて頭を差し出しその時を待っているのだ。
金の冠を戴いたその時、重みにほんの少し頭が沈んだ。
父が、祖父が、祖先が、はるか遡ること一千年にも渡りこの冠を戴いてきた。
全く同じ物でなく、何代か前に作り変えられたものであるが、それでもその重みは、歴史の長さだけジェラールにのしかかる。
逃げるつもりは毛頭ない。むしろ迎え撃たねばならぬ。その決意を、父から力を、記憶を、皇帝の全てを継承した時に固く誓ったのだ。
ジェラールは皇帝になる。
いいや、今もうすでに皇帝であった。執務を行うために書類上の即位は済んでいたのだ。
だが、この儀式を経てやっとジェラールの内に灯った心はまた違った物であった。
今、この時に、ジェラールは、皇帝となったのだ。
目を開き立ち上がる。その身に纏う祝福の紋様に守られた汚れ無い真白き衣がさらさらと清らかな音を立てる。
すっと正された背筋は堂々と。そして樺色の豊かな髪の真上には、黄金の冠が窓から差し込む陽の光に照らされて一瞬目が焼けるほど瞬く。
皇帝の即位を言祝ぐような光の儀式は、天にすら祝福されているかのようであった……と、後の世で語られる。

――第三十一代バレンヌ皇帝 ジェラール陛下 戴冠。
振り向いたジェラール陛下のその姿を認めた参列者一同は漣のように前から順に頭を垂れて恭順を示す。
在りし日のレオン帝を思い出させるような堂々たる佇まいは、その姿を目に入れたものに胸を熱く煮えたぎらせるような感動を溢れさせていた。

じゅうぶんおとな。