第一章 うわさ
全く、人が良くなったものだ、とヘクターは鈍(のろ)い剣を受けながらあくびをした。
このまま昼寝をしたいほどに良い天気だ。
季節は春の入口。冬の寒さを忘れたような、ほどほどに暖かい日で空もよく澄んでいる。
アバロンの突き抜ける青空は月の名所と謳われる声と同じく、人々に愛情を持って親しまれている美しい青だ。
その美しい空の下、緑を従えるよう建つ帝都アバロンのシンボルである宮殿の中庭では昼寝からは遠い剣と剣のぶつかる音が絶え間なく響いていた。
「嫌になるくらい、余裕だね、きみ、は、っ!」
キーン、と一層高く鳴った金属のぶつかる音が空高く登っていく。
畳み掛けるよう二度三度重ねられていく攻撃は、ヘクターから見ればやはり鈍(のろ)かった。
「眠くなるほど遅いんですよ」
またあくびを嚙み殺しながら、切りこまれた側のヘクターはすぐさま合わさった剣を軽く流して勢いを削いで一定の間合いに戻る。
正面には肩で息をするこの帝国の今代皇帝ジェラールが、普段の黄金の鎧ではなく茶革で出来た胸当てをし、白く身軽な鍛錬や軽い運動に用いる衣装に身を包んで立っていた。
対しているヘクターは普段の戦装束で立ち、普段通りの盾眼鏡(アイシールド)の下で目を細める。
ヘクターは今日ジェラールに乞われて手合わせをしていた。
昨年の冬の入口、ヘクターはゴブリンの穴殲滅戦において生死の境を彷徨うほどの傷を負い本人の意思とは関係なく床に縛り付けられることとなっていた。
本来動いていないと死ぬ、と言えるほどじっとしていることが生来出来ないヘクターという男にとってそれは正しく拷問であり、少し動けるようになれば抜け出し剣を振るい傷を悪化させる、ということを繰り返した。それが影響してかヘクターの回復は早かったのだが、治療に携わる医官、術士を頭のてっぺんまで怒りで埋め尽くしより監視が重くなった。たとえ回復が早いという結果があったとしても、それを上回る脱走と何度も開き治りきらない傷をこさえ治療を繰り返さなければならない過程が彼らを怒らせた。
そうしてヘクターとしては不服なほどに長い療養を強いられたのだ。たとえ回復のために水の術をかけに来ていたアリエスに「あなたはおかしい速度で回復しています」と言われていたとしても。
平均的な治療期間からはかなり逸脱した日程で、どうにか、ほぼ、しぶしぶ、医官と術士の「動いてよい」という言葉を引き出して床を払ったのはごく最近であった。
ジェラールに戦線復帰の挨拶を済ませた折、「動けるようになったのなら手合わせしてくれないか」と誘われていたからである。その約束を果たしているのが今日、という訳であった。
「だったら少しは、攻撃してきては、どうっ!」
「あんたが死ぬでしょーが」
側から見ていてもその差は歴然である。ヘクターは刃を潰した鍛錬用の片手剣を右手で持ち左手をポケットに突っ込んだ状態でジェラールの剣を受け止めては流している。完全に舐めている格好であった。
「そのくらい、加減を、覚えなくちゃ、じゃないのかな、傭兵隊長、どの!」
「だから最初から言ってるでしょう。オレは教えるのは向かないんですって」
ガツン、と真正面から振り下ろされた剣を受け止める。その手は右手のみ。対してジェラールは両手で上から振り下ろした一撃だった。
ヘクターの手はじんわりと痺れを感じたが、こんなものは常の戦場では日常茶飯事。やっとその時と同じ状況のものが一つ増えた、程度のものだ。ダメージはない。
「っく、!」
ジェラールの口から苦し気な声が漏れ出る。
ジェラールとしては倒せないまでもダメージを与えられると踏んでいたようだ、難なく受け止めたヘクターを強く睨んでいた。
だがそのようなものはヘクターにとって子猫の爪でひっかかれたかのようなものだ。刃を重ねたままじりじりとジェラールの方へ押し返す。
「大口叩いてた割にザマないですね」
ぐ、とヘクターが一歩踏み込めば、純粋な力だけでヘクターがジェラールを見下ろすような格好に様変わりした。
先ほどまでジェラールがヘクターを見下ろすよう剣を下ろしていたというのに瞬きの間に鮮やかに形勢逆転をされジェラールが苦々しげに口を引き結ぶのを見下ろし、ヘクターは上機嫌で口角を上げる。
「降参します?」
にや、と笑ってやればジェラールには挑戦的な笑顔を返される。瞳には少年めいたきらめきが光った。
「まだまだ!」
ジャリリ! と金属の擦れる音が響いてヘクターの剣は流される。
バックステップを踏み二歩ほどヘクターから距離を置いたジェラールがヘクターに切っ先を向けている。力比べは不利だと悟って仕切り直しを図るようだ。
「懲りねえなあ」
ヘクターにとっては軽すぎる鍛錬用の片手剣を弄ぶよう空中に投げ、くるくると円を描いて放られる剣をまた掴む。ヒュ、パシ、ヒュ、パシ、と小気味のいい音を立てて繰り返されるそれは一見するとただの曲芸だ。同時に相手をこれ以上ないほど侮っているように見えるだろう。
肩で息をするジェラールが、それを眺めて黙っているはずもない。
握りを変えた、と思った矢先、ジェラールがぐん、と勢いを付けてヘクターの間合いに飛び込んできた。
(へえ?)
重なっていく斬撃にヘクターはジェラールの剣捌きに対する認識を上方修正する。小手先だけで重さも無ければ速度も無いと思っていたが、これだけ動き続けているにも関わらずその重さも速度も変わっていないということは、一定の力で戦い続けているということ。決定的な一撃はなくとも、長期戦になった時その力は光るだろう。
だがそれだけだ。
続いている斬撃をきちんと受け止め、流し、避けれるものは避けながら、ヘクターはタイミングを見計らいひと息にジェラールの懐へと潜り込む。
驚愕に丸まった目を見ながらヘクターは笑う。そして足払いをかけた。
「足元お留守ですよ」
「うわっ!?」
一撃のために踏み込もうとした足を払ってやればジェラールはそのまま背中を大地に打ち付け顔を顰めた。そこへ首元にひたりと剣の切っ先を音も少なく当てがえば誰が見ても勝負は決している。
「さて、どうします?」
「……参った」
突き付けられた剣を前に、ジェラールはやっと負けを宣言したのだった。
「アンタ前のめりになり過ぎだ。もっと周りを見る余裕持ったらどうです?」
ヘクターは剣を引っ込め、変わりにジェラールを起こすための手を差し出す。
ジェラールはそれを素直に取って、身軽に立ち上がった。
「きみ相手にそこまでは中々ね」
「ンな悠長なこと言っててどーすんですか。オレより強え奴なんざいくらでもいるんだ、全てを負かすくらいのことは思っててくださいよ」
ヘクターとしてはごく当たり前のことを言ったつもりだったが、ジェラールは信じられないものを見たかのような目でヘクターを見上げている。
「……なんです」
「いや、きみなら〝オレより強いやつはいない〟と言いそうだと思っていたから意外で」
「ハァ!? ……そんなこと言えんのは余程の実力者か馬鹿かのどっちかでしょうよ。相手の力量を侮れば足元を掬われるモンですよ。そういう馬鹿が真っ先に死ぬんです」
「確かに相手の力量を見誤ってはいけないことは分かっているよ。だけどきみは力を持っているだろう? だから意外だと思ったんだ」
「評価してくれんのは嬉しいですけどね。オレはまだ強くならなきゃならねーんですよ」
「これ以上?」
「これ以上」
そう決意させた人間は目の前に居るが、そのことをとんと理解はしていないらしい。
とはいえヘクターはそれを彼に言った訳ではない。わからなくて当然だろう。
そしてヘクターも今はまだそれを口にすることはしなかった。
「少し休憩しようか」
「少しで良いんですか?」
「……きみ私のことを馬鹿にしている?」
「どうしてそうなるんです」
軽口を叩き合いながら二人はヘクターを一歩前にした状態で中庭の中央から移動した。その先には侍従とメイドたちが控えており、あとは主が席に着けばすぐに湯気の立つ茶を出せるほど準備を整えていた。
先ほど手合わせに使っていた中庭の中央が今はしんと静まって、それを眺めるように椅子に座ったジェラールは、侍従から差し出された手巾で汗を拭い水を含んでひと息ついた。
ヘクターにも同じようメイドから背の高い木製のカップに並々と注がれた水が供される。それを受け取りひと息に干したヘクターは、ジェラールが椅子に座り茶の香りと侍従との会話をしている姿を一瞥し、椅子に座ることなくまた鍛錬用の片手剣を手に中庭の中央よりやや手前に移動する。
「ヘクター?」
「動き足りないんで。ちょっと失礼しますよ」
主に休息を必要としているのはジェラールであり、ヘクターはまだまだ動くのには余裕がある。そのため普段はあまり扱わない鍛錬用の片手剣を振って具合を見ていた。
ヒュ、と風を切る音を立てて軽やかに振り下ろし、いくつかの型を試す。
型とは言ったが厳密なものではなく、準備運動代わりによくする動きだ。
ヘクターの剣はほとんどが戦場で拾ったものだった。基本的な扱いも養い親から多少の教えはあったものの、帝国兵士の基礎訓練に比べれば全くなっていないと言われるだろう。
だがそれでもヘクターはこの歳まで生き残り、まだ剣を振るっている。
自分に向いているものだと思うし、戦うことは楽しい。数える程度の恐怖しか経験してこず、いつか死ぬならばせめて意味のある死に方をしたいと思っていたヘクターが、その命を戦場で手放さないよう決めた時のことを思い出して柄を握る手が余計な力を入れる。
普段よりも軽い剣を扱っていることで余計に風切り音が、ブオン、と立った。
これ以上は一度仕切り直しをとヘクターは構えを解いた。するとささやかな拍手が届き、誰が手を叩いているかなど見なくてもわかったが反射的にその方向へ顔を向ける。
「……お楽しみいただいたみたいで」
「こうしてきみの剣を近くでゆっくりと見る機会はあまり無いからね……ところで、今日は鍛錬用の剣を使っているけれど、普段とは違う剣をうまく扱うにはどうするんだ?」
そこへジェラールのその質問である。
未だ手にしたままの剣に視線をやり手元で遊ぶよう軽く空中へ投げては掴む。先ほどジェラールの前でした挑発行動と同じだ。
「違和感しか無ぇですよ。これじゃ軽過ぎる」
「……そもそも刀身の長さも違うものね」
そう言ってジェラールの視線はヘクターの普段使っている剣へとうつる。
今は役目を鍛錬用の片手剣に譲っているヘクターの剣は、ジェラールが座るテーブルセットの反対側、ヘクターが座るはずだった椅子に立て掛けられて静かに佇んでいる。
手合わせで真剣を使うにはヘクターが加減というものを知らないことから、刃を潰してある鍛錬用の剣が選ばれた。
今ヘクターが手にしている片手剣は刃先から柄までの全長でヘクターの腕の長さほど。
比べて普段ヘクターが扱っている剣は柄を除いた刀身の部分だけで腕の長さよりもある。
「まあ、この剣を使うようになって長いですからね。慣れもあります」
ヘクターが顎でしゃくって普段の剣を指す。
いつから使っていたのかヘクターは覚えていない。だがよく斬れるその刃の鋭さ、幾度の戦場でも折れずヘクターと共に戦ってきた頑強さは気に入っていた。
刀身は荒くれ者としての面が強く伝わるヘクターには似つかわしく無いほどの爽やかな蒼。
閃く剣筋は鮮やか、太陽の下で振るわれたそれはその軌跡を光の反射が残す。刀身の蒼をその軌跡に重ねるよう映して。
だから戦場で誰かがいう。ヘクターの剣は蒼き雷(いかづち)であると。
剣は傭兵にとって命を預ける相棒であり、また腕の良い刀鍛冶に打たれた剣を持つことは、剣を扱う人種……すなわち戦士たちにとっては一種のステイタスでもあった。
ところが、ヘクターは剣の扱いが雑なことで刀鍛冶たちには有名である。
ヘクターが一度彼らに剣を預け調整を依頼すればそのたびに「剣がかわいそうだ」「もっと大切にしろ」「こんな男のもとで働かなければならんこいつが不憫だ」とぶちぶち言いながら仕事をする。だから余計に持ち主であるヘクターの足が遠のくというものだが、剣を扱う職人には剣が第一であり人間は二の次なのだ。彼らと同じく剣を愛する人間には優しいのだが。
ついこの間も、ようやく床を払ったヘクターが剣を引き取りに行った途端随分と嫌味を言われたことは記憶に新しい。それを思い出してヘクターは苦いものを噛んだような顔をした。
「大切な剣なんだね」
「……いや、別に」
「えっ」
くるっと目を丸くしてわかりやすく驚くジェラールにヘクターは不思議に思う。
「たまたま壊れて無ぇだけですから。折れたらまた次のを使うだけです」
「でも、その剣はずっと使っていると思ったけれど?」
「コイツの前のが折れたんで、その時に変えただけです。それがいつだったかは覚えてませんが……まあ、腐れ縁ではありますかね」
「ふぅん?」
あまり納得していなさそうな声での相槌にヘクターは肩をすくめる。
しばらく役目の無さそうな鍛錬用の剣を立て掛け普段の剣を手に取る。
駆けた戦場の数の分、その剣はヘクターの手に吸い付くように不思議と馴染む。
ふ、と口元を緩めたヘクターは剣の鋒を下にして片手で持ち上げ掲げ見せる。
「オレも死んでない、コイツも死んでない。だから一緒にいるってだけですよ」
「……剣が、死ぬ時、か」
何気ない言葉にジェラールは何かが引っかかったらしい。
ふと、彼が普段使っている剣を見やる。ジェラールの剣は侍従が預かっていて、彼のそばで恭しく控えられている。
「剣が主を亡くしたら、やっぱり悲しんでいるのだろうか」
溢れた言葉は小さかったが、ヘクターのよく聞こえる耳にはしっかと届いた。
ヘクターは、剣を掲げていた腕を下ろす。
今ジェラールの使う剣は元はヴィクトールのものだ。そしてその剣はヴィクトールがその命を散らした時にすぐ傍らにいた。戦いの相棒として、傍に。
「それとも、悔しんだだろうか。守れなかったと」
「剣は剣ですよ、ジェラール様」
「だが」
「人間が扱わなければ何も出来ません」
「……戦場では命を預ける相棒だと言うのにか」
「戦士も剣も、戦場が生きる場所でしょう。その場所で役割を果たせればそれでいい。そういう話じゃないですか」
「じゃあきみは、その剣が折れたらどうするの」
「まあその時はその時です。新しいのを見繕いますよ」
「ずいぶんさっぱりとしているね。普通もっと愛着を持つものではない?」
「愛着ですか。考えたことも無いですよ。さっきも言いましたがオレにとって剣は剣。よく斬れれば文句はないし、よく戦えればそれでいい」
「……そう」
「ただ、まあ、コイツは長いですからね。その分次のが慣れるまで時間がかかることを考えりゃあ、長生きしてもらいたいとこですね……なんです」
なんだか妙な視線を感じてヘクターは目を半分にしてジェラールを睨んだ。
不服そうな顔から一転、微笑ましげにしているのはなんなのか。
「いいや、なんでもない」
笑いをこらえている様子のジェラールが否定を返すがヘクターはそれに素直にうなづくことなど到底出来なかった。
「碌な事考えてなさそうな顔してますけど?」
「そう? ねえ、剣を見せてもらえる?」
「……アンタにですか」
「いけない?」
誤魔化されてやることもないが、言い出したことについては看過出来ない。
「敵じゃないんで見せますけどね」
「敵には見せられないと?」
「手の内を晒すようなことはしませんよ。剣は戦士の最も近い場所にいるモンです。見たら分かることは多い。だからまあもし、オレじゃない者がこれを持ってたなら」
「持ってたなら?」
「オレは死んでるんでしょうね」
ヘクターとしては何気ない言葉であった。だが返ってきたのは沈黙で剣に向けていた視線を上げてジェラールを見た。
そこにあったのは伏し目がちにヘクターの剣を見つめるジェラールであった。
「ジェラール様?」
「あ、うん。何?」
ヘクターは思わずジェラールを呼ぶ。するとジェラールはすぐ普段と同じ目でヘクターを見た。まるで先ほどの顔が幻であったかのような変わり方にヘクターは瞬きを繰り返す。
「いえ……どーぞ」
「ありがとう!」
ヘクターの手から剣を受け取り眺める姿は幼くも見え、傭兵の詰所で騒いでいる年若いものたちを思い起こさせた。少年たちが憧憬を込め剣に視線を集中させる姿と何ら変わらぬ。
柄を持って斜めにし、陽(ひ)に刀身を翳して輝きをその瞳に映している。
時々投げかけられる質問にヘクターなりに答え、その途中で手を伸ばした時だった。背中が少し引き攣れて、ヘクターはつい手を中途半端な所で止めほんの僅か、息を詰めた。
「っ」
たまにあることだ。ヘクターが長く床にいる羽目になったゴブリンの穴での戦いの際、背中に負った傷は思いの外深く、ごくたまに場所が悪いと引き攣れるような感覚が残っている。
咳払いで誤魔化して話の続きをしようとしたヘクターだったが、ジェラールはそんな小さな変化も見逃してはくれなかったらしい。
「ヘクター?」
穏やかな目は一転鋭く尖る。
「なんでもないですよ」
「そんなことないだろう!」
急に上がったジェラールの大音声にヘクターは眉を寄せる。
「何そんな大声で……」
「怪我か!? まだ痛むのか!? 無理をさせてしまったのでは」
「大丈夫って言ってるじゃないですか」
「でも!」
ヘクターを見上げたジェラールの顔を見た時に、ヘクターは思わず唇を噛んだ。
(ああ、なんで――アンタはその顔をするんだ)
記憶にこびりついている表情(かお)がある。
それはゴブリンの穴で重傷を負ったヘクターを見下ろしていたジェラールの顔だ。
ヘクターがその表情(かお)を見たのはたったの一度。
だというのに忘れられない。
胸がざわつく。
どうしてこの目の前の男はこんな顔をしている。気楽に笑っている方がよほど似合うはずだというのに。気楽に笑えるはずなのに。
心まで守るとヘクターの胸に抱いた言葉に泥がぶつけられて汚されていくようだ。
お前には到底無理だとどこかで誰かが笑っているような気すらした。
ああ全く気に食わない。奥歯を強く噛む。
「何が不安です」
気づけばヘクターはそのまま問うていた。
「……え?」
「なんでそんな顔をしてるんですか」
「そんな……顔?」
翳った暗い瞳、下がった眉、不安に塗り潰された顔だ。
ヘクターの腕が信用されていないわけでは無いだろう。積まれたクラウンの数、言葉でも聞いているし、先ほどの手合わせでもジェラールはヘクターの腕を最上級のものと考えているのが窺えた。
だが事実としてジェラールはヘクターが不調を見せ不安がっている。
それはこれまで彼が失くしたものをまた失くすまいとした心がさせていることは容易に想像が出来た。
だからこそ歯がゆい思いをしている。
頭に血が上りすぎていることを自覚して、ヘクターは細く長い息を吐く。
「……平気です。動く方向によってたまに引き攣れるような感覚が残ってるだけですから」
「だ、けど……」
「アンタが気にしているからと報告したはずですが?」
「それは聞いている」
どんどんと募る苛つき。
「そこまで信用できないのか」
ジェラールは何も言わない。
「オレはアンタに約束をした。守ると言った。オレは、言ったことを守るつもりだ。それでは足りないと?」
「そんなつもりは無い。私は……私はきみの約束を嬉しく思っているよ、本当だ」
「じゃあなんでそんな顔をしてるんだ、オレがそうそう死ぬような真似をすると思うか?」
「違う、そんなことは思って……思っていない」
そうは言うが、ジェラールの顔は変わらず見知らぬ場所にたった一人置いて行かれた幼子に似た顔をしている。
ヘクターはたまらず舌打ちをした。
「だったらオレが帰ってくると信じろよ!」
「だけどそう言って戻って来なかったらどうする!」
今聞いた、耳に入ってきた言葉を徐々に徐々に理解する。
――〝戻って来なかったらどうする〟?
時が止まったように音がしない。
次いで身体の芯がかっと一息に熱を帯びた。
あの時、ジェラールはヘクターの言葉を確かに受け取っていたはずだ。
その約束はヘクターにとっては真摯な思いの受け渡しであった。
だがそれをジェラールは受け取らないと、今はその手を翻してそう言うのか。
ヘクターが口を開こうとするがジェラールがヘクターに剣を返し侍従たちにこの場を引き払うよう指示している。それを終えると振り返ったジェラールは視線を合わせないままヘクターの横を通り過ぎようとした。
「……戻る。ヘクター、手合わせをありがとう」
「おい! 話は終わってないだろ!」
止めようと手を出すがその手はジェラールによって払われる。
ヘクターが目を見開くと一瞬だけジェラールの顔がこちらを向き視線が交わる。だがすぐにその視線は外されてしまった。
それ以降ジェラールの足は止まる事なく、ヘクターの方を見ずに遠ざかろうとする。
「待てよ!」
狼狽えた様子で護衛たちがジェラールの後を追う。そのさらに後ろをヘクターは追った。
――完全にヘクターから逃げている。普段は鬱陶しいほどヘクターを真正面から見てくるというのに、今は一瞥もくれず進行方向しか見ていない。
頑なな様子はヘクターの頭に更に血を上らせた。
何がなんでも追い付いて問いただしてやる、と息を巻いたヘクターの前方、ジェラールが立ち止まった。
「ジェラール様!」
「しっ」
「ふざけるな、オレはアンタが逃げるから」
「すまない、静かにしてくれヘクター。今彼女たちの話を聞きたい」
まっすぐに見つめ返されたのは静かなる森の色。つい先ほどまではヘクターから逃げていた目がまっすぐに見上げてきていた。
「何を言って……」
そこに飛び込んでくる声。ジェラールが言っていたものたちの声だろう。扉越しだが少女たちの声は高く張りがありよく通った。
「ねえ聞いた? あの大金持ちで有名な人のところにどろぼうが入ったっていう話」
「聞いた聞いた! 数えきれないくらい溜め込んでたお金をぜーんぶ盗られちゃったって話よね! もうこれで何軒目?」
「さあ? でも戸締りを用心してても盗まれるんでしょ? どうやっていればいいのよ」
「あらなに? 盗まれるものでも溜め込んでるの?」
「まさか! だけどどろぼうに勝手に入られるのよ? それだけで怖いじゃない……」
「まあ、そうだよねえ。お金を取られるのも嫌だけど、誰かが家に入ってくるってことだもんね……」
ぶるり、と少女たちは想像したどろぼうの姿に身震いをする。
「きみたち」
そこへ、ジェラールは扉を開けて声をかけた。
「え?」
「はい?」
「今の話、少し詳しく聞かせてくれないか」
突然の来訪者に何気なく振り返った少女たちは、見えた姿に目玉が落ちそうなほど目を開き、顎が外れそうなほど口を大きく開けて固まった。
普段の威厳ある黄金の鎧を纏った皇帝陛下でなくとも、その顔は城内のものには知られている。
固まってしまっていた少女達はたっぷり三度のゆっくりした瞬きのあと、ハッとしてからすぐさま頭を下げ膝を折り床に傅いた。
「直答を許す。先ほどの話を聞きたい」
少女達がおそるおそるといった風情で頭を上げている最中、ジェラールの背中からヘクターは構わずジェラールを呼んだ。
もう聞き耳を立てる必要が無くなったのだ、問題などあるはずがない。
「ジェラール様」
「ヘクター、その話は後にしてくれ」
振り返ることもなくジェラールは硬質な声で応える。
義務的なその対応にヘクターはこめかみを親指で強く押しながら声を絞り出す。
「あのなあ」
「ヘクター。二度は無い。下がれ」
だが返ってきたのは、にべもない対応だった。
その様子にヘクターは舌打ちして踵を返す。無駄を悟った。
少女たちは余計に肩を震えさせていたが、背を向けたヘクターが気付くことはない。置き土産に乱暴に扉を締め警備の兵士の顔をしかめさせて、固い石床をブーツのつま先で蹴り上げるよう怒らせながら兵舎に戻っていった。
†
整えられた宮殿内の廊下を削るよう歩くヘクターに、通りすがりの年嵩のメイドが眉間に皺を寄せている。
もちろんヘクターにはそんなことはどうでもいい。普段であればこんなに綺麗な場所を歩くような男ではない。あったとしても限られた回数だ。
だがこの綺麗に整えられた廊下を歩く必要があるから今ここにいる。
間も無く主だったところは明かりが消される夜の時間帯、ヘクターはジェラールの私室を目指していた。
理由はもちろんこの日の昼間、ジェラールにはぐらかされたことを聞きに行くためである。
ヘクターに自覚はないが、周囲を威嚇するかのような険しい表情は自然と人を普段よりも二歩ほど多く遠ざからせる。ヘクターが廊下の中央を歩いていれば、向かいからやってきた年若いメイドが悲鳴を飲み込めず「ひ」と漏らして壁にぶつかってしまう程度には、近寄らせない空気を纏って移動していた。
日が落ちたあと城内は日中に比べ人の気配は少ない。今もすれ違う人間の数は少なく、小さな音も通りやすい静けさがある。
「おい、聞いたか」
だからこそ、普段は音に紛れて届かないはずの人の声が良く通った。
それは聞こうと思わずとも勝手にヘクターのよく聞こえる耳に飛び込んできた。
「――町のどろぼうの話!」
「ああ、何件も被害があり報告が山と来ているぞ」
「アバロンが潤うのは良いが治安が崩されてはなあ」
そう話す兵士が居て。
「ねえねえ、最近やり手の商人が居たじゃない? あそこ、どろぼうにぜーんぶ盗まれてしまったんだって!」
噂話に花を咲かせるメイドたちが居た。
「それほんと? ……言っては悪いけど、あのあんまりよくない噂を聞く商人、よね?」
「そうよ。他国の珍しいものをよく売っていた彼。いい気味だ、って話してた人もいて」
「騙された人を欺くために言ってるのじゃなく?」
「違うみたいよ。売り物まで盗られてしまったから半狂乱で詰所に来たとこを見たんだもの」
「そういう話を聞くといい気味、って思うわね」
「ほ~んと! 私も騙されて変なもの買わされたのよね」
「え? ……だからそんなに嬉しそうなのね」
「だって! 返品も返金も出来なかったんだもの! 美容に良いって聞いたのに肌がこんなに荒れて!」
「うわ……ひどいわね」
「でしょう! だからせめてあの姿を見たからスッとしたわ!」
いやでも耳に入ってくるそれらに余計に昼間のことが思い出される。
しかしここまで噂が回っているとなると、またどこかのお人よしが事を起こさないかと思う。
はたとそこまで思い立ってガシガシと音を立て乱暴に自身の頭を掻きむしる。
(……ガキじゃねえんだ。そこまでお守りしてやる必要はねーだろ。命令されたならともかく)
だが噂話は絶えることなく人を変え場所を変え聞こえてくる。
結果的に部屋につくまでに嫌というほど聞かされることになった。
目的の扉が見えた時にはやっと聞かなくてすむようになると思ったほどだった。
ヘクターはすぐに見張りの兵士に声をかける。
「ジェラール様はいるか」
「約束はしているのか」
「してねーよ。オレがすると思うのか」
「では通せぬ」
「中には居るってことだな」
それだけ聞ければ十分だった。
ヘクターは兵士を無視して扉に手をかけた。
「おい貴様!」
もちろん兵士はヘクターを止めにかかるがそんな分かりきったことにヘクターが何もしないわけがない。
ヘクターを捉えようと伸びてきた腕を避け手首を掴み思い切り引く。
「なっ」
前のめりになったところを鎧に保護されず剥き出しになっている頬に拳を一発めり込ませた。
「ゥぐ!」
戦士としての経験差でヘクターは兵士をなんなく沈めると勝手に扉を開けた。
すぐに見えた部屋の中、まず目に入るのは鮮やかな赤とオレンジで編まれた絨毯、そして険しい顔の侍従が椅子の横で立ちヘクターを睨んでいた。
その侍従の横、茶器が一揃えは置ける程度の飴色の艶やかなテーブルに、揃いの飴色をした瀟洒な椅子に座っているジェラールがいたずらをした幼子を叱ろうとするような顔でヘクターを見上げていた。
「ヘクター」
「アンタ、部屋の警護を見直すべきじゃねーか?」
「……無理やり入ってきていきなりそれなの?」
ジェラールがため息をついてから頬杖をつく。
「オレ程度が一人暴れただけでここまで侵入できる体制はどう考えてもおかしいだろ」
「まあ一理あるかな」
そう言ってからジェラールは侍従を下がらせた。分かりやすく不服そうにしてジェラールに食い下がっていたがもう一度皇帝が強く言えば侍従もさすがに下がっていった。……ヘクターには最後まで厳しい視線を寄越していたが、そのようなものはヘクターの意識の外であった。
「さて。他の者がいては話が進まないからね。きみと話す時は二人きりが多いね」
「別に誰がいても構いませんが」
「きみが良くても同席するものによっては口論になって時間を消費するだろう?」
「まあ否定はしませんがね」
ジェラールに勧められる前にヘクターは勝手にジェラールの向かい側に置かれた椅子へやや乱暴に腰を下ろす。その拍子に苦手な者が聞けば顔を顰める甲高い音が立った。こぎれいな椅子が普段出さないだろう悲鳴に似た音は静かに抗議しているかのようだった。それからヘクターは普段通りに脚を組んでジェラールを見下ろす。椅子に座っても体躯の立派なヘクターとジェラールが並ぶと自然、ヘクターはジェラールを見下ろす位置にいる。そこには日中の動揺など無かったような普段通りの穏やかな、しかし表情を読み取らせない微笑みを浮かべた皇帝が座っている。
口火を切ったのはジェラールからだった。
「ちょうど良かったよ。きみにも話を聞きたかったから」
「へえ? オレに聞きたいことが?」
話が長くなりそうだ、と思っていたヘクターの思惑とは違い、ジェラールはヘクターと真正面から向き合うつもりであったらしい。こちらが言わずとも日中の話の続きをするのか、と思ったが。
「ああ。ヘクター、きみは〝アバロンのどろぼう〟の話を知っている?」
ヘクターの期待はすぐに裏切られた。
「〝アバロンのどろぼう〟?」
ヘクターは眉間に深い皺を作った。
今その言葉を聞いて真っ先に思い出すのはこの部屋にたどり着くまでに嫌と言うほど勝手に耳に入ってきた話の数々。
ここでもまた同じ話を聞くことになるとは思わずヘクターはしっかりと舌打ちをした。
「……どうやら聞き覚えがあるようだ」
「そりゃあね。今城でも町でもその話で持ちきりですね。ここに来るまでも耳塞いでなけりゃ自然と入る話題です」
ヘクターが普段よりも声を低くし話すとジェラールは目を丸めていた。
「……そこまでか」
「金持ちを主に狙ってるみたいですけどね。景気のいい商人や町人が被害にあってていい気味だ、言(つ)ってるメイドがいましたけど」
「では義賊のようなことをしていると?」
「さあ? そこまでは知りません。別に貧しいものに施しをしているって話は聞きませんけどね。単純に実入りがいいんでしょう」
「では話は早いね。その〝アバロンのどろぼう〟を捕まえようと思うんだ」
「鼠取りですか」
「猫かもしれないよ?」
「どっちもちょこまかと動いて面倒そうですね」
「だが治安が悪化する原因になる。問題は小さなうちに解決しておけるならそうしたい」
「はあ、左様で」
そこからはジェラールが知っている〝アバロンのどろぼう〟についての情報を聞くことになった。
皇帝の手ずから入れられた茶が出されながら経緯を聞く。遠慮せず茶を飲みながら聞いた話は、特段ヘクターの知っていること、というよりも嫌でも耳に入る噂話と同等の内容が語られた。
では何故アバロンでいま、というその理由はヘクターの知らぬ情報であった。
曰く、今勢いをつけているバレンヌ帝国の帝都であれば豊かな暮らしが出来るともっぱらの評判があり、特にこの一年で移民が増え続けていること、それに伴い商人の出入りも盛んで交易も順調、結果的に帝都で商いをしているものを中心に懐が潤う住民が多く、その話がさらに回って一念発起して帝都に人が集まっている、らしい。
その賑わいが今回の〝アバロンのどろぼう〟騒動を生んだのではないか……とジェラールは睨んでいるようではあるが、ため息をついていた。
「バレンヌが栄えることは喜ばしいことなんだ。それに帝都であるアバロンを中心にその賑わいがあることは当たり前でもあるしね。だけどこのアバロンで生活してきたものたちにとっては、その賑わいが原因でこれまでの生活が悪い方向に変わることを歓迎することは出来ないだろう」
「そういうモンですかね」
ヘクターがそう返すとジェラールはううん、と唸ってから人差し指を立てて言う。
「これまでなんの不自由なく生活していた者が、国外からやってきた者たちによって富をもたらされた。最初は歓迎していても時が経ち我が物顔で街を闊歩するようになっていくと不満も出てくるんだろうね、元からここに居たわけではないくせに、とね」
「つまり余所者が金を稼いでいるのがおもしろくねーってことですか」
「まあ……とても単純に言うのであればそうだ。そこで留まっていればいいけれど、不満が別の方向へ作用されるのも困る。だから皇帝として看過することは出来ない。〝アバロンのどろぼう〟がその流れに拍車をかけているなら、民たちにも分かりやすく示す必要があるだろう」
「それでその泥棒を捕まえたい、と」
ジェラールが頷いた。
ヘクターとしては話の半分も理解出来なかった。だがジェラールがそう望むのであれば臣下としてジェラールに降ったヘクターにはやるべきことが分かればそれでいい。
「私よりもきみの方が市井には近いから聞いておきたかったんだ。来てくれて助かったよ……さて、夜ももう遅い。引き止めて悪かったね。話は以上だ」
ぴくり、とヘクターの目尻が吊り上がる。
「ジェラール様」
「うん?」
「オレの用件が済んでいません」
「……何かな」
「分かってるだろ、昼間の件だ」
ジェラールは何も答えず、口元だけで笑みを浮かべた。
その態度は、確実にヘクターを拒絶していた。
†
「……ヘクターは怒っているだろうなあ」
一人きりになった部屋でそうジェラールはつい先ほどまでのことを振り返る。
――あの後の対話は平行線だった。
ヘクターはひたすらにジェラールに問うてきたし、ジェラールはそれにずっと答える気はないと示し続けた。
あの後アリエスの訪問が無ければどうなっていたか分からない。
そのお陰で強制的に区切りを付け、ヘクターを追い出すことに成功したのだから。
すっかり静かになった部屋でテーブルの上のカップのつるを指先で弄ぶ。金に染められたその持ち手はカップの部分の白との対比が美しい。シンプルながらも夜の寝しなに使うにはちょうどよいものであった。
その白磁の中の茶はとっくに冷めていてジェラールは眺めるだけで結局元の場所へ戻した。
もう一度淹れ直させるか考えやめる。
下がらせた侍従を呼び戻すのは少しだけ憚られた。
彼はヘクターの事をよく思っておらず、事あるごとにジェラールへヘクターとの距離を置くべきだと進言されてきた。
それは彼だけではなく、この宮殿内にはいくばくかのそういったものたちがいる。
だからこそあまり一緒にするようなことをしないようにしていた。
そうした悪感情と組み合わせの悪さを把握はしていたが、武功で帝国を支えてくれる彼も立ててやりたい気持ちも正直な気持ちである。
今この帝国は武力を欲していた。
それは七英雄との戦いを考えれば当たり前のことで、力を蓄えることはいくらあっても足りないくらいだろう。
対するのは伝説の中の人物……いいや、今となっては人であったかも分からぬ未知の存在を相手取り、世界の安寧のために果ての見えぬ戦いにその身を投じている。
数年前の自分に今の状況を聞かせたらどのような反応をするだろうか。
ジェラールは夢想する。
まだ第二皇子であったジェラールには、父も、兄も、また沢山の兵士達が政務官達がいた。
兵士達には侮られていたが、政務官たちには助けられたことも多く強く信頼を寄せてくれたものもいた。
そうして自分は内政に励み、いずれ父の跡を継ぎ皇帝となった兄を支えアバロンの宮殿で戦から帰る皆を迎えるのだと……そう信じていた過去を思い出す。
もう皆いなくなってしまった。
「きっと、今の状況を昔の私は信じてくれないだろうな……いや、信じたくはないだろうか」
――『だったらオレが帰ってくると信じろよ!』
ふ、と頭を駆け巡った声に身を強ばらせる。
まだ失くしていないものがあった。
かすかに動いた唇。
だがこぼれそうになったものを拾い上げるように片手で口を塞いでしまった。
誰かに聞かれているはずもないのに人影がないことを確認するよう辺りを見回した。視界に映るのは普段通りに整えられた部屋の壁と絨毯と本棚、テーブルと椅子が二脚、寝台。
きちんと、何の変化もない。
そうしてやっと詰めていた息を吐き出す。
椅子から立ち上がったジェラールは、部屋の隅にある簡易的な執務机を見やった。山とは言わずとも丘程度には積まれた書類がある。
そちらへ足を向けようとして……やめる。
「……もう、寝てしまおう」
決めてしまえばあとはもう早い。
残っている執務はあったが手をつけられる状態ではないし、とこの先の予定に区切りをつけた刹那。
かすかに耳に何か音が届いた気がしてまた部屋を見回した。
変化を探す目がまた今居る部屋をぐるりと回った。音が立つようなものが転がったわけでもなし、侵入者がありそうな気配もない。では何が?
またジェラールが耳を立てたその時。
チリリ……
「……鈴?」
今度は確かにジェラールの耳に届いたその小さな音に導かれた先には――窓がある。
「なんだ?」
アバロンの宮殿を抱くよう広がる森の向こう。日が落ちている今は深緑というよりも漆黒と表すのが相応しい。月の光乏しい三日月の夜は目を細めても遠くを見通せる気がしなかった。
しかし不思議なことに、その漆黒に混じって浮かびあがるようにほんの少し明度を上げた人影を見た。
「あれは?」
まるでその人影に操られたかのように、ジェラールはその人影を追って部屋を出た。