帝国私記Ⅱ-心臓の在り処【5万文字サンプル】

 第二章 帝国の次の一手


「盗っ人を助けたァ!?」
 その声は昨日と変わらずアバロンの抜けるような青空を割くように宮殿に轟く。
 ヘクターの一歩前を歩くジェラールが、わ、と言いながら片耳を手で塞いで振り向いた。
「ヘクター、声が大きい」
 きゅ、と形の良い眉を寄せたジェラールがヘクターを見上げている。
 昨夜、なし崩し的に部屋を追い出されたヘクターはむしゃくしゃしながら眠りについた。
 うやむやにされたまま実に腹の虫が治らない対応をされて、それは一晩経っただけでは到底収まらず、ヘクターは今朝から実に不機嫌であった。
 今日いまそうしているように、ジェラールの護衛としての任が無ければジェラールの顔すら見ないまま酒場で酒でも呷っていたに違いない。
 以前のヘクターであれば何にも構わず任をほったらかしにしていただろうが、一度従うと決めた主に背く行為はヘクターの美学に反する。だからこそジェラールの元を訪れた。
 だが訪れたヘクターを見た時ジェラールはどこか安堵しているようにも見えるよう眉尻を下げた笑顔で「ああ、来たのか」と声をかけてきた。
 来ないとでも思っていたのかと勘ぐれる態度にまた余計に昨夜のむかっ腹の立つ対応を思い出してヘクターは遠慮無く舌打ちをし、同じく側に侍っていたジェイムズに早速怒鳴られた。
 立っていた気は治るどころか悪化した。
 だからこそまともに会話する気にもなれずヘクターは終始無言を貫いていたのだ。
 始めはジェラールもそのヘクターの纏う空気から話しかけもしてこなかったが、会議を行う議場へと進む道すがら、徐々に口から世話話が飛び出してくる。そしてジェラールはついに「ああ、そういえば」と先の内容が話されたのであった。
 ――曰く、今アバロンを席巻している泥棒に会い逃げられるも、モンスターに襲われて足どめをくらっていたその泥棒――話によると少女らしい――を、助けた、と。
 思わずヘクターが声を立てるのも致し方あるまい。
「オレの声荒げさせてるの誰だよ! アンタ皇帝の癖にどうしてそう危なっかしいことばっかしやがるんだ!」
「大丈夫だよ、良い子だったし」
 にこり、毒気無い笑顔でさらりと流された。
 ひくり、ヘクターの眉が吊り上がる。
「そういう問題じゃねえだろ」
「……そうかな?」
「ジェラール様、私も今、はじめて、そのお話を伺ったのですが?」
 ヘクターの左隣、ジェラールの一歩後ろで同じく控えていた帝国軽装歩兵のジェイムズが、さらりとその長い薄紫の髪の毛を靡かせジェラールの顔を覗き込むよう近づき、まるで地を這うかのような低い声が響く。
「……そうだったかな?」
 ジェラールはあくまでもしらを切るらしい。
 空気を区切るよう、ジェラールは軽く咳払いをして軽く振り向くと後ろに従えている臣下二人に笑みを浮かべる。
「だがあの身軽さは目を見張るものがある。それに手慣れているから荒事にも対応が出来るだろうし……何より宮殿への侵入を許していたんだ。きっと私たちが知らないことも知っているかもしれないね? 裏の情報ルートもありそうだ。単純に捕えるのではなく助力を願うというのも悪くないのかもしれない」
「盗っ人風情を国に招き入れると!?」
「アンタ気は確かか?」
 ジェイムズとヘクターが共に難色を示すと、しかしジェラールはなんでもないように笑う。
「今の帝国に、常識の範囲の力以外も必要、ということだよ。うまく報酬を目の前に釣れば助力してもらえて泥棒被害も無くなる。いいことばかりだろう?」
「そんなうまく行くかよ」
「可能であれば、良いよね、という話だな。今の所は」
「……ですがジェラール様、可能になった場合にはその手を使うと?」
「考えるだけならばいくら考えていても良いと思うよ。――相手は七英雄なのだから」
 おっとり、と言い表せる程度には柔らかかったジェラールの声は、七英雄の単語をその口から出すときに信じられないほど固く冷たくなる。
 ジェイムズは自然と口を閉ざし、ヘクターは前を向いて表情の見えないジェラールの背中を見ることにとどめた。
「今、姿を確認できている七英雄はいない。だが名前だけは聞こえてきているものもある。ジェイムズ、その話はしたよね?」
「は。現在七英雄の名を騙るモンスターを三体確認しております。ボクオーン、ノエル、ロックブーケ」
 ジェラールはジェイムズの言に軽く頷く。
 ヘクターもその話は聞いていた。ジェラールは世界中の情報を広く集め、その中でも七英雄の存在を探ることも行なっていた。
「今はここよりも遠い地域にいるが、クジンシーの例もある。いつこのアバロンに攻めてくるかはわからない。――七英雄だけでなく、他のモンスターに対するものでもそうだ。少しでも多くの力を蓄え、備えはいつでも万全以上にしておかなければならない」
 そう語るジェラールは二人に聞かせるためというよりも己の考えを整理するためかのように一方的に喋っていた。
 そうしていると、目的地である会議の議場へ続く廊下への入口が見えてくる。話は一度締め切るらしい。
「さて、今日は気を引き締めなければね」
 そう言って皇帝は一段外向きの対応となった供を連れ議場へと向かい、到着すると扉を開けさせた。
 議場は宮殿の二階東南に位置し、今回の議場は宮殿の中でも一番広く政務官を始めとする文官、将軍職にある武官を集めてもなお余裕のある作りをしている。
 皇帝が一歩室内に入れば着席していた全員が立ち上がり頭を垂れる。
 ジェラールはそれにひとつ頷いて部屋を進む。ヘクターはその後ろにぴたりと付き従った。
 議場の中央にはこの部屋のために誂えられた縦に長い机。よく手入れされ磨かれたそれは飴色に輝く。そこへ長辺に沿って両脇にずらりと政務官、そして少数の軍部のもの立っていた。
 上位に位置するのは皇帝の椅子で、椅子を挟み背後に護衛――今日の場合はヘクターとジェイムズだ――が付き、そこから下位に向かって政務官がまず並び、最後に軍部のものが座す。
 ジェラールが椅子につき「かけよ」との一言が合図になり一同は頭を上げ着席する。ジェイムズとヘクターは護衛のためこれ以降ずっと立ちっぱなしだ。
「では、情報を聞かせてくれ」
 ジェラールの一声で場は動き始めた。
 まず初めにジェラールの座る場から見て左手、三番目に座する政務官が立ち上がる。
「は。それではまず、術研究所の建設についてのご報告です。先ごろ着工し現在は順調に地盤の整地から行っております。提出された計画表通りにまずは進んでおります」
「そうか、術の発展に期待出来る大切な施設だ。これからも定期の確認、報告を命ずる」
「は!」
「続いて同時期に嘆願がありました街の公園、仮称〝アバロンの園〟計画について、間も無く土地の整備が成り本格的に植樹が可能となりますが、その内のひとつを陛下の御手で埋めて頂く式典を出来ないかという声が上がっております。いかが致しましょうか?」
「なるほど、アバロンの街を彩る場だ、周知のためにも式典はよい考えだ。――いいだろう。日程と内容を計画し提案せよ」
「かしこまりました」
 一度報告をし終えた政務官は着席し、また別の政務官が立ち上がる。
「続いて私の方から帝国大学の建設についてご報告申し上げます。以前ご報告をしております通り、建設にかかる費用が依然として足りておりません。現在の状況ですと、あと二百万クラウン必要です」
「予備予算を使っても難しいか」
「恐れながら陛下、予備予算は先の遠征での補填に回しております。これ以上は……」
「そうか……では別の手段での調達を考えなければいけないな」
「陛下、発言をお許しいただけませんでしょうか」
「許す。申せ」
「はっ!」
 ――ああ、退屈だ。
 ヘクターはジェラールの後ろで堂々と欠伸をしていた。こうなることは分かっていたが任務なので割り切るしかない。
 気配を探ることをやめてはおらず、きちんと護衛としての責務は果たしているが目の前の退屈な会議には飽き飽きする。
 ヘクターはそもそも政治などどうでもいい。
 真剣な顔をしてジェラールに意見を言い、もしくは問い、議論は白熱しているがヘクターにとってその内容は右から左へ、だ。
 同じようジェラールの後ろに控えている左隣のジェイムズから欠伸をするな、しっかり警戒しろ、ジェラール様の護衛としてきているからにはしゃんとしろ、等の言葉が例え聞こえずとも視線で訴えかけて来ている。
 それを分かってしまうことにうんざりしながらヘクターは正面を見た。
 ジェイムズの視線の他にも、ヘクターを煩わしそうに見る視線があるからだ。
 特に――右手の前から六番目に位置する椅子へ座っている眼鏡をかけた政務官。生真面目をそのまま人の形にしたのならこうだろうと言える者だった。
 珍しくヘクターがその男を覚えているのは理由がある。そもそもがよほどのことが無い限りヘクターは他人を覚えることはない。
 実際今ここに居る大勢の政務官や武官たちとは顔を合わせることは多い。ヘクターがジェラールに控えるようになってからは特に。だが名前を覚えても居なければ、会ったことがあるのかどうか、その判断すら付かないしそもそもどうでもいい。
 だがその男が有象無象にならなかったのは、ヘクターに対し真正面から「貴様はジェラール様の側近に相応しくない」と幾度となく囁かれたことがあるからだ。
 来るたび来るたび似たようなことを繰り返すその生真面目な政務官にヘクターは飽きずによくやるものだ、と思いながら無視していた。この男に限らずそのような輩はこれまでにも多く、「粗暴で品のない教育の行き届かぬ金の亡者は宮殿に相応しくない、ましてや皇帝に侍るなどおこがましいので去れ」といった内容をよくそこまで言葉をくるんで言えるものだ、という言い回しで数十聞いてきた。
 殺してしまうとその後がただ面倒だったから威圧的に睨んで追い払っていた。そうすれば二度目は無く、遠目から汚らしいものを見るような目で見られる程度だったからだ。視線は鬱陶しかったが以前から変わらぬことだ、気にしなければいい。
 だが何事にも例外はいるようで、諦めることなく煩わしいほどその生真面目な政務官はヘクターに会えば居丈高にジェラール様の傍はお前に相応しくない、と喚き続けるのだ。
 そうなれば顔を見れば苛つく対象となって、ヘクターの記憶に収まることになってしまった。
 そのこと自体も実に不愉快だった。
 ヘクターが気分を害するものを目に入れてしまいため息をついた頃。
 ヘクターの意識が外れていた会議も熱が上がってきていた。
 ドン、と机を強く拳で叩く音が響く。ジェラールの座る席に程違い位置に座している白髪交じりの白髪混じりの政務官が唾を飛ばしながらしゃがれた声で進言していた。
「陛下、やはりルドン地方宝石鉱山への遠征を! 国庫の乏しさは国の運営に直結することであります。潤せる資源を先んじて確保し資金面での盤石をまず手に入れるべきです!」
 ヘクターのいる位置からジェラールは見えないが、考え込んでいるようで、ふむ、という吐息のようなものは聞こえてきた。
「だがあそこはすでに一度閉山しているな? 現在の状況はどうなっているんだ?」
「はい、陛下。先遣隊の情報では資源は潤沢、今のところ他国が手を入れている状態ではないのですが……モンスターが鉱山を巣にしてしまい討伐をせねばどうにも危険な状態であり人の手が入っていないのです」
 白髪混じりの政務官とは別の政務官が報告する。
「では宝石鉱山を手に入れるにはまずモンスターの討伐から始め整備をしていかねばならんということか……」
「で、ですが陛下、一度手が入ったあとの土地ではありますがまだ採石は十分に可能、むしろモンスターの出現によって長く鉱山は手つかずの状態であり……」
 ジェラールの渋い声に不利を悟ったのか白髪混じりの政務官は早口で補足する。
 そこへ白い髭をたっぷり蓄えた老齢の政務官が割り込んだ。
「話にならんではないか」
 議場の視線はその老齢の政務官に向かう。
 ジェラールの左手一番目に座する彼はその立派な髭を撫でさすりながらゆっくりと述べる。
「希望的観測が多すぎるのではないか? 議論する以前の問題だ。博打で兵を動かすわけは無かろうに」
「お言葉ですが! あると分かっている資金源をみすみす見逃す理由は無いはずです!」
「それはそうだな、魅力的な資金源ではあろう、あの宝石鉱山は」
「では」
「だが、ルドンまでの遠征にどの程度掛かると思う? 軍事予算もそうだし期間もそうだ。モンスターの討伐、鉱山の整備、人足の雇い入れその監督者、そしてそれを統括するもの、運び出し加工し市場に流し資金となるまでにどれだけかかる?」
「そ、それは」
 老齢の政務官はわざとらしくため息をつく。
「いささか準備不足のようだな。それに今南バレンヌのほとんどを帝国が掌握したとはいえ、全てを領土としたわけではない。南バレンヌを抜けルドンへ向かうことを考えれば遠征過程の道に不安も残ろう。更に今は南バレンヌのヴィクトール運河に要塞が築かれたことを知らぬものはおるまい。……その程度も分からぬとは申すまいな?」
 優しい声音だというのに咎めるような空気を纏い老齢の政務官が白髪混じりの政務官に問う。
 表立っての嘲笑は無いが、その内心は白髪混じりの政務官への嘲笑が抑えきれぬ空気や同情めいた視線が飛び交う。
「宝石鉱山の有用性は私も把握している。だが今すぐに決断出来る情報が少ないことも確か。引き続き情報を集めよ。有用なものがあればすぐ報告するように」
「……かしこまりました、陛下」
 白髪混じりの政務官が頭を垂れ話は一度途切れる。
「さて、ちょうど話題にも上がったし、ヴィクトール運河の要塞についての報告を聞こうか。だれか」
 ジェラールのその声に、「は!」とはつらつとした返事がある。眼鏡を一度反射させ、生真面目を絵に描いたような政務官が報告のため立ち上がる。――ヘクターを目の敵にしている者だ。
「現在ヴィクトール運河に建造されていた要塞にモンスターが住みついた、との報告が上がっております」
 議場が一度ざわりと揺れた。
「何? ……詳細を聞こう」
「は。運河要塞が稼働を再開したと聞き近辺で酒場を営みはじめた者がおりますが要塞内に見えた姿がモンスターだったことから相談が上がりました。その際に調査をしたところ、要塞の城壁の警備に当たっているのか、モンスターが多数警戒にあたりうろついているとか。正確な数字は判然としませんが、警備の数と要塞の規模から算出するに千は下らないモンスターが詰めていると考えられます」
「千だと!?」
「モンスターがその規模で……」
「陛下、まだございます」
「申してみよ」
「なんでもそこを指揮する司令官が、〝自分は七英雄ボクオーンの片腕である〟と言っていると」
 今度は確実に、ざわ、と議場が動揺で揺れる。
「ボクオーンだと? その繋がりがあるものが運河要塞にいると言うのか?」
 鋭い声が響く。一瞬誰の声か分からないほど常とは雰囲気の異なるジェラールの声だった。
「七英雄の討伐は何よりも優先して行わなければならないことだ。事実、モンスターたちの活発化は止まらない。七英雄の出現が引き金になっている可能性も示唆されていた――そうだな?」
 急に話を振られたのはジェラールのいる場所から離れた机のほぼ反対側、武官の集まる方向。
「は。モンスターの研究者がそのような可能性を報告してきていることは確かでございます」
 武官の答えを聞きジェラールは思案している。
「ソーモンほどの近さは無いがまたアバロンに影響があっては困る。――要塞に動きはあるか」
 整理するよう呟いてから、ジェラールは再度生真面目な政務官に声をかけた。
「それが、モンスター達が詰めてはいるものの、どこかへ攻め込む様子も見せてはおりません。ただ現段階では戦の準備が整っていないだけで鳴りを潜めているのかもしれませんが……」
 生真面目な政務官の報告を受け、ジェラールの右手前に座する上位の政務官が口を挟んだ。
「まずは状況の確認をさらに詳細にすべきかと。何か目的があるのならばそれを潰さねばなりますまい」
 その時、はっ、と小馬鹿にしたような笑い声を一人の政務官が立てる。
「モンスター風情にそのような賢しらな真似が出来ようか」
「意見があるなら述べよ」
「は、はっ!」
 笑い声を立てた政務官は独り言のつもりで零したようだが、上位の政務官に声を掛けられ即座に身を固くしている。そしてもう一度今度は独り言ではなく言った。
「モンスターが詰めているだけであればそこここにあるモンスターの巣と同様、殲滅作戦を要することはあれど、何か目的があるとは思えず……」
 その言に上位の政務官が応える。
「〝自分は七英雄ボクオーンの片腕である〟と言っている司令官がいるという話だ。人語を話すモンスターが以前よりも多く確認されている今、一概に馬鹿にもできまい」
「ですがいくら司令官が居ようとほとんどはこちらを攻撃するしか脳がないものでございましょう?」
 政務官がなお侮りを強く込めてそう宣うと武官たちが詰める方向から声が飛ぶ。
「その攻撃するしか脳がないモンスターと相対すれば、戦う力のない者は死するしかないとご存じ無いか」
 割り込んできた武官は物申さずにはいられなかった様子で先ほどから嘲りの発言を続ける政務官を嘲笑する口調であった。
 あからさまな態度に政務官も黙っていない。
「それは貴方(きほう)らの領分であろう。存分にその力を振るって戦う力のない者を守るのが貴方(きほう)らの仕事。違うか?」
「ああ?」
 汚いものを見るような目つきで政務官は武官を諭してやっている、という風情で口から言葉を吐き出し、武官もわかりやすい挑発に声を抑えることをしない。
 ヘクターはさらにつまらなくなっていく会議にあくびすらつけなくなっている。
「やめよ」
 皇帝の色の無い声が響く。
「……失礼いたしました、陛下」
 即座に政務官が慇懃に礼をする。武官は黙ってジェラールに対し頭を下げていた。
「情報が足りないことは確かだ。続けての調査を命ずる」
「は」
「陛下、恐れながら」
 おい、と隣に座る別の政務官に袖を引っ張られたことを気にする様子もなく、今度は若い政務官が立ち上がりジェラールへと声をかけてきた。
 まだ終わらないのか、とヘクターがため息をつくが場は動いたまま言葉が飛び交う。
「なんだ」
「運河要塞への進軍はお考えでは無いのでしょうか」
「今はその判断をするには足りないものが多い。遠からずそうする可能性は高いだろう。だがとにかく今は情報が足りていない。調査を続け必要であればその可能性も出てこよう」
「ですがいつ攻めてくるか分からぬのです。そうであればこちらから打って出るべきではないのでしょうか」
「まだ事が起こっていないにも関わらず、また起こるかも分からんものにその度多くを割いていけと申すのか? 人も金も時間も有限だぞ」
「ですが様子を見ている間にあちら側が準備を整え攻め込んできたらどうするのです?」
「その時に対応するしかあるまい、調査をつづけていれば異変があれば気付けよう」
「では準備に時間を要するものが必要だった時はどうするのです」
「先回りし考え備えるべきものは備えるという思考は大切だがまだその考慮も出来ないほどの情報しか無いのだ。それとも運河要塞を攻めたい理由でもあるのか?」
「そ、それは……」
 言い淀んだ若い政務官は誰かを探すよう視線を動かしていたがすぐに止め、「出過ぎたことを申し上げました」と言い頭を垂れた。
「では……」
「陛下、発言をお許し頂きたく」
 座るようジェラールが声をかけようとしたその前に、白い髭を蓄えた老齢の政務官が肩の位置まで手を上げ遮った。
「どうした? 発言を許そう」
 その老齢の政務官は先ほど白髪混じりの政務官を窘めた者だ。
 彼はその場で立ち上がりジェラールへ礼をすると皺が目立つ顔を真っ直ぐに上げ表情の読めぬ顔で口を開いた。
「ありがとう存じます陛下。では単刀直入に申し上げます。運河要塞への進軍をお考え下さいませ」
「かの土地は随分と人気のようだな。……それは何故だ?」
「まず第一に」と言いながら老齢の政務官は人差し指を立てる。
「モンスターがあれだけの数を揃えて何もせぬまま、ということは無いでしょう。足りないものが揃うのを待っているのか、懸念が去るのを待っているのか分かりませぬが、すでに報告にあった数、千はくだらぬモンスターが詰めているとすれば、一つの号令でその千の軍勢が動くことは容易に想像が出来ます。さらに事態が動くとすればやはり急なこととなるでしょう。その場合の備えは今からでも準備をしておくべきかと」
 続いて老齢の政務官の指は二本立つ。
「第二に、陛下のご功績で南バレンヌのほとんどを掌握されました。あとは運河要塞を帝国のものとすれば、運河を活用した交易がさらに活発になります。その先の大陸への移動も容易になることでさらなる領土拡大、また遠征地の候補が飛躍的に増えるでしょう」
 今となっては議場はシン、と静まりかえり、周囲の者は皆老齢の政務官の言葉に耳を傾けている。
「第三に、彼の地はかつての帝国の領土でございました。今はほとんどその頃を知るものがおりませんが、故郷に再び戻りたいと切望する民も未だおります。その子孫たちもそうです。陛下のお力で取り戻したとなれば、より強い信奉を得ることも出来ましょう。何より、かの要衝を抑えることが出来れば我が帝国は南バレンヌを掌握し、かつての帝国の領土を取り戻すことが出来るのでございます」
 ふむ、とジェラールは右手で顎を撫でる。
「確かに、運河要塞を落とすことで利点は多くあるな。だが珍しい。きみがそこまで熱弁を奮ってくれるとはね? かの土地に特別な思い入れが?」
「私は帝国のためになる物しか陛下にご進言いたしません」
 老齢の政務官から返ってきたのは平坦な声だった。
「ですのでまずは南バレンヌを取り戻し、バレンヌ帝国の威信をここに示すことが優先されるべきではないですかな?」
 老齢の政務官がたっぷりと蓄えられた顎鬚を手で撫でさする。
 それを受けて政務官も武官も囁きの声で意見が飛び出す。議場は静かな喧騒を取り戻した。
 そこここで様々な意見が飛び交い自然とあちこちでの議論へ発展する。
 新たな交易路への期待を議論するもの、かつての領土奪回を熱く語るもの、モンスター侵攻を憂うもの。先ほどの若い政務官も熱を込めて語っている。
 上位の政務官が注意しようとするとジェラールがそれを手で制し、それから一つパン! と手を一度叩き耳目を集める。
「――皆の関心が高いことはわかった」
 皇帝の声が囁きというには大きくなりすぎた議論の声らを止める。
「運河要塞への進軍については改めて協議が必要であることには変わりない。今よりも情報が集まり次第再び集まるよう。日時の調整は頼めるな?」
「は!」
 上位の政務官が応える。
 ジェラールは頷いて、再び前を見、全体を見回した。
 そうしてこの日の会議は閉会となった。
 
 結局ヘクターはジェラールの護衛としての任をそのまま終えた。大層つまらない場で立ち続けることは嫌がらせのようで鬱憤は溜まっている。
 兵舎で人員を募り軽く汗を流すかとこの後の予定を頭の中で組む。
 目の前を行くジェラールは、付いてきた政務官と話しながら執務室へ向かっていた。それを送り届けるまでがヘクターの今日の任務だ。
 今日ヘクターの鬱憤は解消の機会を得ることなく追い出されるだろう。
 だがまた部屋を勝手に訪れ話を聞けばいいかと安直に考える。
 しかしヘクターはその後ジェラールと私的な場での機会には恵まれなかった。
 任務では顔を合わせるものの、執務室への入室はもとより私室への訪いも厳重になり追い返される。力で対抗しようにも人数を揃えられては明らかに分が悪い。
 以前無理矢理に執務室へ入り込んだ際「部屋の警護を見直すべきじゃねーのか」と言ったのはヘクターだが、この国の皇帝がしっかりとその役目に合った安全対策を組めば、一介の戦士であるヘクターにそれを突破できるはずが無かった。
 そうして何度目かに追い返されたヘクターは盛大に舌打ちする。
「……やれば出来んじゃねーかよ」
 
 †
 
 改めて開かれた会議にて。
 ここ数回は同じ顔ぶれで開かれる会議。
 もたらされた情報と状況を並べ協議を繰り返した帝国は結論に達する。
 その日の会議は皇帝によりこう締め括られた。
「今後さらに領土を広げるには海路を開くのは必定。何より彼の地は元より我が帝国の切り開いた土地だ。かつての領土を取り戻すためにも、運河要塞攻略を命ずる!」
「は!」
 議場にいる全ての政務官は揃って声を上げ首を垂れる。
 それをひと回り見回したジェラールが頷く。
 帝国は次の一手を繰り出すその指先を運河要塞に定めた。
 その日もヘクターは護衛としてジェラールに付き従っていた。
 避けられてはいるが顔は見合わせる。
 だがそれがすこぶる気に食わない。
 ヘクターはただ見ていた。次の戦場を。それからジェラールの背中を。

じゅうぶんおとな。