第三章 ジェラールの〝こわいもの〟
ジェラールは執務室で口元を手で押さえ机上を睨んでいた。
窓からは健康的な日差しが暖かな光を届け気持ちの良い日である。
だがその日差しが照らす執務机を前に椅子に腰掛けるジェラールは眉間に皺を寄せている。天気の良さとは反対にその頭上には暗雲が立ちこめていた。
そこへ侍従から声がかかり顔を上げる。
政務官が報告に来たというので通すよう言うと、やってきたのは顔なじみの生真面目を体現した政務官であった。
「失礼致します」
「ああきみか」
「はい、私でございますジェラール様」
言葉遊びのような気安いやりとりはジェラールの眉間から皺を取った。
「ご報告がまとまりましたのでお渡しに参りました。運河要塞に関するものが主となります」
「ありがとう」
執務机を挟み書類の受け渡しがある。
目を通しながらジェラールはまた眉間の皺を増やした。
自然とため息が出る。
「お疲れのご様子ですね。茶を用意させますか?」
「いや良い。さっき飲んだばかりだから」
「左様でございましたか。では、私に何かお手伝い出来る事はございますか」
「充分助かっているよ」
「それはようございましたが……やはり、運河要塞攻略についてはジェラール様も頭を悩ませますか」
これだけ分かりやすく悩んでいるのだ、彼にそう言われても無理は無い。
ジェラールは苦笑してぴら、と書類を翻した。
「なかなか難しいね、当たり前だけれど。今帝国の軍事力で正面からの突破も可能ではあるけれど賢い選択だとは言えない。だが軍部は押し開ける力があるのだから正面突破をすべきだと主張しているし」
「私も戦のことを専門にはしておりませんのでしっかりと反論は出来ませんが、可能であったとしてもその後の損失を考えますとジェラール様のご懸念は分かるつもりです」
「うん。勝てはする。だが兵力は確実に削れるだろう。兵士を育てるにも金も時間も多くかけているんだ、むざむざ減らすようなことを進んではやりたくないのだけどね。――一部の武官は私が及び腰になっていると考えるみたいだが」
「そのようなことしか考えられぬものがいることが私としては情けないという感想を抱かずにはいられませぬ」
「だがきみも見ていただろう? 先日の軍議を」
「……左様でございますね」
二人が揃って思い出したのは、運河要塞攻略を選び進み始めた折、改めて整えた第一回目の軍議でのことだった。
血気盛んに正面からの突破を唱える武官たちと理性的な文官たちで意見の相違が凄まじく、まとまる話もまったくまとまらず結局仕切り直しをすることで無理矢理閉会したのだ。
「何かもう一つでも突破口があれば話は変わってくるのだけど」
「そう、ですね……」
生真面目な政務官も渋面を作り顎を手でさすり考えるよう視線を天井に向けていた。
だがすぐに「あ」と、声を漏らす。
「……失礼しました。急に思い出したもので声が出てしまい」
口を手で塞ぎ慌てて顔を垂れた生真面目な政務官は言い訳するよう焦り声で謝って来た。
「いや、小さなことでも構わない、何か気になることがあれば教えて欲しい」
「は。その、現地に調査へ出た兵士から『自分なら要塞の秘密を探れる』と宣う男がいたという話は耳にしました」
ジェラールが許したため顔を上げた生真面目な政務官は今度は報告の時と変わらずピンと背筋を正し改めて口にした。
その内容にジェラールの眉が動く。
「その話は初めて聞く」
「報告は上がっておりませんか? ……軍部が潰したのでしょうか……」
再び考えるそぶりをした生真面目な政務官は、しかしそのまま続ける。
「とにかく、金銭を要求されたために断ると詳しい話は聞けなかったようで。詳細をまとめ報告するよう伝えますか?」
「そうしてくれ」
「かしこまりました」
頼もしくジェラールの要求に是を唱えた生真面目な政務官にジェラールは頷きそして、ほんの少し昔を思い出した。
こうして彼が支えてくれるようになってどのくらいになるか。
彼と出会ったとき、まだジェラールは皇帝になる予定も無い第二皇子であった。
†
それはまだジェラールが成人もしていない時分に参加した会議でうっかりと口を挟んだことから始まった。
議論をしていた政務官たちの中に混じり耳を傾けていたジェラールはその時、〝第二皇子〟という名の置物で、議論の場に同席している、ということだけを求められていた。
だが話を聞く内にその聡明な頭脳は政務官たちが最終的に持って行きたかった議論の結論を先に述べてしまった。
ある意味でその場は茶番だった。
だが必要な茶番であり、ジェラールはその茶番を見守ることが今回求められて居たことだった。
「殿下」
ジェラールが口を挟んだ直後、その場を取り仕切っていた政務官がにこりと仮面のような笑みでジェラールを呼ぶ。
「まこと、殿下のご提言には感服致しました。本日はその事例についてを広く周知し確認をする場でございました。――殿下のお陰で随分と早く話が進みます」
言葉では褒められていた。
だがジェラールは失敗を悟る。
その場にいたジェラールよりも遥かに年上で父レオン帝に長く仕えてきている政務官たちは皆口元には笑みを浮かべながら、視線はそろって冷ややかであった。
その後ろに控えている政務官補佐たちはまだジェラールの方が年が近いためか同情的な視線を寄越してはいたけれど。
「ありがとうございます、殿下」
笑顔だとしても、人を攻撃する時の人間は恐ろしいものなのだと、幼いジェラールはその身に刻まれる。
ああ、失敗してしまった。
その後、表面上はつつがなく収束へ向かい、その場を取り仕切っていた政務官が言うように予定よりも早く話はまとまる。
最後にジェラールがその場を辞する時、政務官たちは皆慇懃に頭を垂れジェラールに恭順を示していたが、その伏せられた下の顔がどのような顔をしているのかを想像したジェラールは足取りを重くしてその場を後にする。
閉じられていく部屋の扉のきしむ音がやけに耳に残った。
気遣わしげな侍従の気配を背中に感じながらも、ジェラールは自室に戻った。
鬱屈とした思いを抱えながらその日の予定をこなしていた時である。ジェラールの部屋を訪ねる者があった。――今日の場にいた政務官補佐だと名乗った。
「どうかしたか?」
ジェラールは気にしていないことを装い政務官補佐に声をかける。
緊張した面持ちで、ジェラールよりいくつかは年上に見える彼――おそらく兄ヴィクトールと同じくらいの年頃だろう――は、ずれていない眼鏡を直しつつジェラールの前に向き合った。
「殿下におかれましてはご機嫌麗しく」
「堅苦しい挨拶はよい。何用か?」
「――は。本日の、議場にて殿下がご指摘なさったことについて」
(ああ、あの政務官のどれかがこの政務官補佐を寄越したのか)
すう、と体温が下がっていくような気持ちだった。
これからは大人しくしていろ、と念を押しに来たのだろう。
ではここで求められている対応は何か? 帝国のつつがない運営のために忠言をしてきた政務官を立て第二皇子は鷹揚に許し今は学びの時として飲み込むことだろうか。
けれどジェラールはそのようにすぐ〝正解〟を選べない。
気持ちが追いつかない。
飲み込めない言葉はそのまま色の無い声で問うてしまう。
「あの者らに言いつけられて大人しくしていろと言いにでも来たのか」
「いいえ!」
返ってきた声の強さにジェラールは目をぱちぱちと瞬いた。
その否定はジェラールの鬱屈とした声に重なるように勢い込んで発せられ、強い声をしていた。
「し、失礼致しました、殿下のお声を遮るなど……」
「いや……よいのだ。それで?」
ジェラールも少し呆けたまま政務官補佐に続きを促した。
「は、その、私はむしろとても……感服いたしました。殿下のご聡明さは素晴らしいと私は思います!」
きらきら、とか、ぴかぴか、とか。
彼の瞳は輝いていてとても眩しい。
純粋に慕ってくれていることが分かる気持ちを傾けられることは面はゆく、なんだかくすぐったい。鬱屈としていた心をさらりと洗い流されたような気持ちになる。
けれど同時に思い出す。冷ややかな視線と感情とともなっていない仮面の笑顔。
「だけど私では……」
言ってもいいものなのか。呆れられないだろうか。それでも一人で抱えることを今のジェラールには出来なかった。
例えばこれが兄や父であったなら、ここまで素直に言えたかどうか分からない。
「私では、あの者たちに侮られている。議論の場にすら出ることを納得させられない」
小さな零れ落ちた声はしんと静まった部屋で床に落ちていく。
静寂。
ああ、また失敗してしまった。
「っ何をおっしゃいます! 殿下であれば出来ますとも!」
ぐん、と引き上げたのは凜々しく響く政務官補佐の声。
失敗、してない?
「……そう?」
「先達のものたちに立ち向かうことは殿下のお立場でも今は難しいのかもしれませぬ。調和を重んじる殿下のお優しいお心を私はきちんと理解しているつもりです。それは殿下の美点であると、私はもちろん心得ておりますが、そのお心があるからこそ多方面から物事をお考えになり、なかなか思い至ることのできない物事を捉えられておられる。それは実に素晴らしいことだと私は思うのです。そのご慧眼があるからこそ殿下は物事の本質を捉え議論の結論に先んじて至られた。実に素晴らしいことです! どうぞそのままお鍛えなさるべきと存じますぞ!」
いつ息をついたのか分からぬほどひと息で晴れやかに言いのける熱のこもった言にジェラールは一時言葉を忘れた。
心の内で押しとどめておかなければいけない言葉。弱気の言葉を口にすることをあまり褒められたことのないジェラールにとって、彼のその熱弁は確かに心にあたたかな光を思いがけず投げ込まれたかのような心地がした。
そのジェラールの沈黙をどのようにとったのか、はっとした生真面目な政務官はわざとらしく咳ばらいをして視線を下げた。
「も、申し訳ございません、出過ぎた発言を……」
「い、いいや!」
「殿下?」
ついジェラールは勢い込んで言葉を挟む。先ほどとは立場が入れ替わるようだった。改めて口にしようとすると、どうにも喉の奥に何かが詰まったような心地がするが、それでもジェラールは言葉にすることを選ぶ。
「その……ありがとう。お前にそう言われて、私も自信が持てた。――また、こうして話を聞いてくれ」
自然と零れたのは笑顔だった。その笑顔は、彼が、この政務官補佐がジェラールにくれたもの。
ジェラールがそう言うと、政務官補佐はふるふると分かりやすく身体を震わせ明るくまぶしいほどの笑顔を見せてから、表情を改め典雅な臣下の礼をする。
「望外の喜びでございます、殿下。私めで宜しければ、是非何時(なんどき)でもお声がけ下さいませ」
首を垂れる彼のつむじを見ながらジェラールは晴れやかに笑う。
「もちろんだ!」
「若き帝国の星、殿下に直にお声がけをお許し頂けたこと誇りに思います」
かれはきちんと立場というものを分かっていた。躾の行き届いた姿は彼の優秀さを裏打ちしている。
だがジェラールは少しだけ欲が出てきた。その距離の遠さを惜しく思った。
きっとこの彼にであれば、言ったとしても呆れられることはないだろう。そう思えば口も軽くなる。
「……以後、私のことを名で呼べ」
「は……?」
「名で呼べと、言った」
ほんの少し拗ねるような声になってしまった願いに、政務官補佐はしっかり瞬きを繰り返して呆け、ぱ、と太陽が差し込むように眩しく笑った。
「は、はいっ! ありがとう存じます、ジェラール殿下!」
「殿下、はやめてほしいのだけど?」
「で、では……ジェラール様……?」
今度こそ、ジェラールは彼に向けて晴れやかに笑った。
「ああ、ぜひそうしてくれ!」
†
「ふふ」
「ジェラール様?」
その時は政務官補佐であった彼は、今こうしてジェラールのもとへ政務官としてよく通う。
「いや。きみとこうしてよく話をするようになった時のことを思い出していた。覚えている?」
「もちろんでございます」
「あの時のきみのまっすぐさと言ったら……私たちも幼かったよね」
「そっ……! そのようなことも、ございましたね、陛下」
ゴホンゴホンとわざとらしく咳払いをする生真面目な政務官は視線を逸らす。
その返答に、あの時のことを本当にしっかりと彼も覚えているのだとわかった。
そして軽口を返してくれるようになったこともまた嬉しい変化だ。
「あれ? 私は名を呼べとあの時に言ったはずだけれど?」
「……全くお人が悪くなられた」
言葉とは裏腹に柔らかく下げられた眉と優しい声は気安い。
最近よくそのように言われることを思い出して、ジェラールはくふくふとまた笑った。
「そうなのかな? ……ヘクターにもよく言われる」
「は」
そう口にしてからあの会議以来きちんと顔を合わせていない彼のことことを思い出す。
忙しくしていれば思考の隅に追いやれた。
だがこうしてまた思い出してしまえば、ひと息にジェラールの胸の内は形容しがたい何かを見つけてしまう。
「私としてはそんなつもりはないのだけど……きみにも言われるのであればそうなのかな」
「……ご冗談をよくお口にされるようにはなったかと」
「そうなんだ? 変わって、いるのか……」
そこで一度会話は途切れる。
「ジェラール様」
だがそれほど時は経たぬ内に生真面目な政務官がジェラールを呼ぶ。
「どうした」
「どうしてあの傭兵をお側に置くのです」
「ヘクターのこと? どうして、とは」
「必要な教育も施されていない、どのような生まれかも分からない、クラウンの数で主を変えるような者をお側に置くことにどのような理由があるのか私にはわからないのでございます」
強い声だった。咎めている訳では無いがヘクターという存在を許容出来ないでいると分かる声。
ジェラールは目を伏せる。
「……きみも、そう言うのか」
「っ申し訳ございませんジェラール様! 決して貴方様のお心を疑っている訳ではなく!」
「いいや……違うんだ、ありがとう、きみは私を心配してくれているのだろう? その心配はありがたく貰おう」
「もちろん御身を守る力を持つ者がお側に侍ることを申し上げているのではございませぬ。しかしながら帝国には優秀な兵士も数多おりきちんと教育機関を経てお仕えしているベア様やジェイムズ様もおられます。なれどどうしてあの傭兵をお近くに起用されるのかが私には不可解なのでございます! ……っ深い、お考えがあっての、ことかとは存じますが」
尻すぼみに小さくなっていく生真面目な政務官の声を聞きながらジェラールはどのように周りに見えているのかを改めて知った。
「……何故、か」
「ジェラール様」
「何故だろうね」
答えは宙に浮いたままつかめぬ場所にあるようだった。
けれどその日から、ジェラールは部屋の警備をより厚くするよう指示した。
誰であっても、何があっても、突然の訪問を通さぬように、と。
†
宮殿の中はいつもより少々の気ぜわしさが支配している。
それはそうだ、いつ、という明確な計画はまだ立ってはいないが近いうちに運河要塞攻略へ向けて帝国は動く。
その気配が宮殿のどこに行っても小さなものから大きなものまで漂っていた。
その中をヘクターは議場に向かって進む。
今日は運河要塞攻略のための軍議、その二回目であった。
一回目は散々だった、とヘクターは回想する。
仲良く手を取り合ってやりましょう、等と言うつもりは毛頭無い。
だがどうでもいいことで争い時間を無駄にしたことをヘクターは思い出しため息をついた。
せめて今回はもう少し実のある話があれば良いが、と、思っていた。
「秘密裏に侵入出来る道が見つかった?」
一番大きな議場で開かれる会議は、大抵いつもと同じ配置で行われる。
位の高いものが奥へ位置し、そこから政務官、武官と続く。そして今回は作戦に携わるであろうから、と傭兵たちも部屋の隅で立たされていた。
いつもより人口密度の高い中、表面上はつつがなく始まった二回目の軍議でまずもたらされたのが新しい情報だった。
その報告を聞いたジェラールが改めて聞き返し、その場にいた政務官、武官がざわついていた。
そんな空気の中、眼鏡をかけた生真面目な政務官は自席で立ったまま報告を続ける。
「は、調査を続けたところ、『要塞の秘密を探れる』と言う男との接触に成功し、運河を使うルートで侵入出来るとの調査結果が現場より上がっております。――詳細の報告を頼む」
生真面目な政務官の視線は武官たちが居並ぶ方へ視線を向ける。その先には一人の兵士がおり、「は!」ときびきびした動きで立ち上がった。
「近隣での情報を集めて居たところ、件の男と接触致しました。金銭を要求されたため一度ご報告を見送りましたがご指示により追加調査を行い情報を買った所、ヴィクトール運河を上り入り込める場があるとのことです。またこの男はその入口までの案内を買って出ており兵を随伴させることで要塞内部への侵入をたやすく出来るかと存じます!」
この情報に勢いを付けたのはもちろん武官たちであった。
「陛下、これは好機でございます! 内部への潜入を果たせば正面の硬い守りがある扉の突破も容易になりましょう!」
「正面からの突破とて我が帝国軍の力であればかないますが、他の手も同時に使えるのであれば勝率が上がる、というわけですな!」
「で、ですが!」
喜色あらわに声を上げた者に、報告をしていた兵士が声をひっくり返しながら割り込む。視線は彼に集中した。
「その道を使用する場合は少人数しか運べず、最大で十五名程度だと……」
「じゅ、十五!?」
「たったのか!?」
先ほど勢い込んで発言した武官二名がまた声を揃って上げた。
「……とはいえ、やはり使える手段は多いに越したことはないのではないか?」
そこへ一人の政務官が呟くように言った。
思っていたよりも通った声に驚いたのか、発言の後咳払いをしていたが、そこを起点として議場は荒れ始める。政務官と武官が入れ食いで意見を絶え間なく述べ始めた。
「そのような少人数では選べる手段が多いとは思えぬ」
「だが使わぬという選択肢もあるまい。作戦の一つとして組み込んでいけば」
「少人数で動けるものをか?」
「信頼をおけるものをお選び頂いた方がよろしいでしょうな。少人数で無ければならないというのであれば、下手な人員では潰れるだけ。……で、あれば。一人一人の能力が高い傭兵たちを使ってはどうか?」
「傭兵を使うのか?」
「信頼に足るとは思えん」
「だが陛下の信頼を得ている傭兵隊長殿であれば任せられるのではないか?」
「おお、そうですな。このような時のために傭兵らの褒賞を高く与えているということでしょう」
政務官の言葉に、ここでジェラールが口を挟んだ。
「それについては武功に相応しい報酬として渡しているものだ。それ以上でも以下でもないと常々言っているだろう」
「ははあ、そうでありましたか……いやなに、わたくしめの見解ではこういったときに真っ先に前線へ立ち命を張るからこそ与えているものだとばかり思っておりましたが……どうやら違うようですな」
その目は嘲笑をたたえて傭兵達が固まる場所をちらと一瞥した。同席しているヘクターへの分かりやすい挑発だ。だが乗るほどヘクターも馬鹿ではない。
「てめえ! おれたちの命を金で買ってるって言いてえのか!」
だが傭兵達が乱雑に並ぶと言うよりとりあえず集まって立ってはいる、という集団の中から勢いの良い声が飛ぶ。
「城でブルブル震えて篭もってるような戦えもしねえ奴が守って貰ってるってのに感謝も出来ねえのか!」
煽りに乗ってしまったのは傭兵の中でも若く、他の者に比べればまだ傭兵として戦場を駆けた数の少ない者であった。それはつまり傭兵として未熟な部類に入る。まだ戦闘でも危なっかしい所が残り、そしてこうして何も考えずに真っ直ぐな言葉をそのまま吐き出すところがある。
ヘクターは舌打ちをする。
会議への同席が傭兵部隊全体に求められたのはこのためだったのか、と今更悟ったからだ。
「なんだその言い分は! 事実を申したまでのこと、戦うしか脳が無いお前たちに金を払ってやってるのだぞ、ありがたく思え!」
嬉々として取り繕うことなく傭兵達を侮る言動をする政務官は状況は悪化させていく。
それも一人が暴走しているのではない。同調するものも出てきた。
「貴様ら傭兵は金を積めば尻尾を振る下賤の者、所詮金に群がる亡者ではないか」
ピリ、とその空間の空気が張り詰めたのがその場にいるもの全てが肌で感じていた。
「成功すれば富を得られるのだ、命をかけるのは当然であろう? それを生業としている貴様らが何を賢しらに申しておるのだ? それともまだ足りぬと申すのか? 随分と貴様らの命は高いのだなあ……卑しいことだ」
「ほう」
地の底より更に奥深くから出(いづ)る声が響く。
ヘクターは意識して圧力をかけるよう今発言した政務官たちを睨む。
「てめーら如きがオレらの仕事を説くのか」
一歩、一歩、ヘクターは先ほど発言した政務官に近づく。その道すがらにいる者はぶるりと身を震わせていた。ヘクターの怒気にあてられ恐れている。いつ自分の首が物理的に飛んでしまうのか、という恐怖に。
「やめよ。双方矛をしまえ。ここは議論の場だ」
ここで発言できるのはジェラールしか居ない。
「おい」
ヘクターは言い淀まなかった。
「オレも傭兵隊長ってモンをやってるんだ、発言には責任があることを知ってるぜ、いいか、おい、アンタ。その地位にいるからには今の言葉を忘れるな。オレたちは言われた通りにその案内人から買う情報でもって運河要塞に侵入してやる。だが勘違いするなよ、これはお前に言われたから行くんじゃ無い。帝国のためでもない。部下の不始末はつけてやる。だからしっかり金を払え。いいな」
ずい、と人差し指を政務官の鼻っ柱の先に突きつける。ひゅ、と顔を青ざめさせた政務官が思わずという風情で息を呑んだ。それから苦々しげに顔を顰め呟いた。
「金の亡者めが」
ヘクターは鼻で笑う。
「分かりやすくて良いだろ? おめーは金を払うよう指示すりゃいいだけだ。――誰でも出来る仕事をすりゃいーんだからよ」
目の前の政務官はみるみる顔を憤怒に染め、勢いよく立ち上がった。
「私たちが上手く使ってやっているのに己が賢いと勘違いしているとは知らなんだ! 良いだろう貴様らがこの作戦を成功させられるというのであれば金を払ってやろうではないか!」
「別におめーに命令される筋合いはねーぜ」
ヘクターはもうその政務官を見ていなかった。
ヘクターに命令出来る人間は今この世に一人しか居ない。
「陛下、ご命令を」
議場のものたちの目がジェラールに集まる。
目を閉じている皇帝はゆっくりとその瞳をあらわにし、ヘクターを見た。その感情は分からない。ジェラールは皇帝の顔をしている。
それから政務官を見、もう一度ヘクターを見た後静かに命を下した。
「――先の作戦の実行部隊隊長を、傭兵隊長ヘクターに任ずる。合わせて部隊編成はヘクターに一任、運河要塞の内部破壊工作、並びに正門突破補助を命ずる」
†
時は瞬く間に流れていく。
着々と準備は進み運河要塞への出陣まであとわずかと迫る中、ジェラールはヘクターを執務室に呼びつけた。
訪れたヘクターは笑いも怒りも見せずただ憮然と「お呼び出しにより参上しました」と告げた。
「ああ。よく来てくれた」
それに部屋の主であるジェラールは執務机を挟んで彼と対面する。
「ご用件は」
だがヘクターは平坦な声で、まるでジェラールを拒絶するかのように問いかける。
「……運河要塞の配置について聞きたいことはあるか」
ハ、とヘクターは笑った。嘲りの響きが滲んでいる。
「わざわざこんな時期に呼び出すモンだからどんな用件かと思えば」
「大事な作戦の前だ。確認は大切で――」
「いい加減にしろよ」
ジェラールが言いつのることにヘクターは言葉を重ねて遮った。
先ほどまで感情を表にまるで出していなかったヘクターはあからさまな不機嫌を漂わせてジェラールを見下ろす。
「わざわざ呼びつけてこの個室で話すことがどんなことかと思えば〝運河要塞の配置について〟だ? そんなことを聞きたいなら何度もやってる作戦会議の時に聞けばいいだけだ。違うか」
ヘクターの指摘にジェラールはきゅっと喉の奥を詰まらせて、しかし悟られないようゆっくりと言葉を選んでいるのを装って話す。
「……しっかりと、聞きたかっただけだ。作戦会議の時では全体の話が主になる。個別で確認を取るにはこうしてきみを呼んだ方が」
「じゃあ作戦会議の前でも後でもオレを呼べばいいだけだろ。なんで、わざわざ、オレを避けてたアンタが執務室にオレを呼ぶのか聞いてるんだぜ」
「避けてなど……」
そう口にしてから思い当たるのは警備を厚くした件だ。
たしかにあれ以降ヘクターと顔を合わせるのは事務的な場合だけになった。
「オレが気付いていないと思ったか? 今日オレを呼び出したアンタは案内の者を付けたな。そいつが居るだけでいとも簡単にここに辿り着いた。オレがアンタに会おうとした時とは大違いだったぜ。――アンタのたったの一言、許しがあるか、無いかでこれだけ違うんだと思うと腹が立つ」
「きみ、私の所に来ていたの」
「しらばっくれんなよ。あれだけうるさくしてたってのにしらねーは無いだろ」
だがジェラールには本当に心当たりが無かった。
「ら、来客は知らせるようにしていた、きみが来ていたというのは聞いていない……」
「へえ」と至極どうでも良さそうな返答がある。
「で、話はなんです」
「だから先ほども言った」
「まだンなこと言うのかよ。そんな建前の話じゃねえアンタが本当に話したいことはなんだって聞いてるだろ。別にあるんじゃねーのか?」
ジェラールは答えに窮した。
何故ってそれは、ヘクターの言っていることは――
「なんだ、図星か」
態度で悟られる程、ジェラールの動揺は激しかった。
「違う」
「じゃあなんです」
先を促されてもジェラールは思うとおりに口を動かせなかった。
今ヘクターに何を言えばいいのか分からなかった。
自分で呼びつけておきながら、対面する覚悟も出来ていなかった。
それでも呼んだのはこのまま彼を戦場に送ることをしたくなかったからだ。
「……結局だんまりか」
聞こえてきた舌打ち。それからすぐヘクターは背中を向けた。
「ッ違う! 私は……!」
執務机に手をついたまま、ガタ、と音を立てて椅子から立ち上がる。
普段のジェラールであればまずしない行動だった。
だが引き留めなければ。
ヘクターの足はぴたりと止まる。顔だけがジェラールを向いた。
「待ってくれ、ヘクター」
飛び出した声の頼りなさに笑えてくる。
全く顔を合わせていない訳では無かった。運河要塞の作戦会議ではむしろ頻繁に同席していたし声を交わすこともある。
けれどそれまであったはずの個人的な関わりは無くなった。
ヘクターの言うとおり、関わりを無くしたのはジェラールの方だ。
最初はそのことに安堵していたことは確かだった。言いたくないことを言わなくて済むのだから。
だが次第にふとした時に思うようになってしまった。ヘクターはもうジェラールとこれまでのように話し合える間柄では無くなってしまったのでは無いかと。
ジェラールはまた失敗してしまったのではないかと思えて。
だから。
「なあ、アンタはなんでオレをその顔で見る」
ヘクターが何を言っているのかジェラールには分からなかった。
情けなく「え?」と困惑が口から零れていく。
「オレは聞いてるだけだぜ、ジェラール様。アンタの答えを聞いてないから聞き続けてるにすぎない。アンタは何がそんなに不安なんだ。どうしてそんな顔をする」
――まただ。
ジェラールは浅くなりそうな呼吸を意識して長く大きい呼吸にする。変化は悟られるだろうが、大きく乱れるよりはましだ。
「……ヘクターは私にどうしてそんな顔をするのかと言うけれど、そんな顔、ってどんな顔なの」
「置いてかれて途方に暮れてるガキですかね」
「……なに、それ」
「なあ、アンタは何が怖いんだ」
「こわい?」
「何を恐れてる」
ジェラールの怖いもの。恐ろしいもの。
それは。
「――きみがそれを言うの」
ずっとずっと、ジェラールの胸の内には箱があった。
その中に押し込めていたものがあった。
時々それは溢れてしまって、急いで蓋を閉め続けた。
蓋を閉めるときに使う手はジェラールの今の手と、それから幼い時の紅葉のような小さな手、そしてまだ剣を頻繁に握って居なかった頃の傷の無い手。
その場所に少しでも押し込めて留めて置きたかった。
その箱に入っているものは失くしたもの。
だって母はジェラールを残して死に、父も兄も、親しくなった皆も次々いなくなった。
ジェラールはいつでもひとりに戻された。
それでもいつかは物語のように上手くいってくれると信じたかった。
けれど、物語の結末を信じられなくなったのはいつだったろう。
めでたしめでたしのその先はどこにも書いていない。
物語はそこで終わりで、幸せになった彼らのその先は描かれていないのだから。
その先で何が起こっていようとも、物語の中では彼らは幸せなままで居られる。
次第に悟った。物語は物語であるということを。
現実に生きているジェラールには時が流れていく。
今幸せになったとしても、それはいつか終わり泡沫に消える。
幸せだった記憶だけを残して、その幸せをくれた人が居なくなっていく。
知らなければ良かった。
そうであればてしまっても失くしたことに気付かずにいられる。
だったら、はじめから何もない方が余程いい。
何かに期待し、いっとき手に入れたとして、諦めなければならない時が来るのなら。
そんなものを初めから手にすることが間違っている。
それでもジェラールは捨てきれずにいる。
ジェラールはまだ失くしていないものを持っていて、悲しみが襲いかかり連れ去られてしまいそうになっても、まだ、ここで立ち上がるだけの力を持てる。
共に戦う者達が居る。
ジェラールを信じ付いてきてくれるものがいる。
思い出す顔は数多あり、そのすべてがジェラールにとって愛おしい者。
それをジェラールが放り出していいはずがない。
けれど失うものがゼロではないからそのたびにジェラールは迷う。
手放してしまいそうになる。
それでもまだここにしがみ付いている。
ジェラールは皇帝だった。
兄が護り父から受け継いだ帝国の、皇帝の血を継ぐものとしてこの先を切り開き今揺らぎ続ける世界を救うために立ち続けること。
時には犠牲に目を瞑り帝国の利を取り戦に勝ち続け最後には世界を救い上げるために。
そのたびにジェラールの心がすり減ったとしても、それでもやめることは出来ない。
ジェラールは皇帝だった。
だけど。
ジェラールは人間だった。
それが国に必要だからと分かっていた。
それでも運河要塞に、危険度が高い任務にヘクターを送り出すことを躊躇した。
喉が引き攣れて言葉が詰まる。
ジェラールの言葉を待っている者達がいる目の前で狼狽えた様子を見せるわけにはいかないのに。
皇帝としてそれは口にせねばならぬことだ。
だが口にすることを憚ってしまう。
それは戦士であるヘクターにとっても屈辱的な言葉だろう。
けれどジェラールは恐ろしかった。
死ぬなと願ったヘクターに、死にに行けと言うことが。
ひどく、恐ろしかった。
ジェラールだってわかっている。
戦場に送り出して戦士が死なない確率の方が低いということ。
だからあの命令は、〝死ぬな〟という命令はただのジェラールの祈りだった。
だけど、ヘクターはそれをジェラールにきちんと応えた。〝死なぬ〟と。
ジェラールにとってそれはとても嬉しくて――怖いことだ。
信じてしまう。
信じて――だけど、それでもし失ってしまったら、その時ジェラールはきっと自分ではなくなってしまうから。
だから恐ろしい。
ヘクターを失ってしまう事は、すなわちそれはジェラールの死を意味するからだ。
だからジェラールは怖い。
皇帝でいられなくなる。
国を守れなくなる。
そこまで自分が弱くなってしまったことが怖い。
だからヘクターに知られたくない。
だから自分でも気づきたくない。
それがジェラールの怖いもの。
ジェラールが〝皇帝〟でいられなくなってしまう理由が――ヘクターだから。
それはきっと、ジェラールの我が儘なのだろう。
普段であればジェラールはきっと口にしなかった。
それが戦士として生きるヘクターにとってどれほど屈辱的な言葉であるかをきちんと知っていた。
だから口にしないことが求められていたしそうしてきた。
けれどこの気持ちを説明するならば、言わなければならない。
聞いたのはヘクターだ。だから答える。その結果どのように思われても。
「きみが帰ってこなかったらどうする。〝死ぬな〟と言ったのに。きみが死んだらどうする。戦場に出かける戦士が死なないで帰ってくることがどれほどの奇跡か知っている。死はすぐ訪れる。きみが死なずに戻ってくることなど、誰にも分からないだろう。きみが、次の戦場で死ぬかもしれないのに不安にもなるなというのか!」
一つ口にすれば言葉はどんどん溢れてくる。
これでは子どもの癇癪だ。
けれど止められなかった。
だってヘクターが聞いたのだ。
ジェラールは答えた、それだけ。
言い切ってジェラールはふう、ふう、と荒れた呼吸を整える。
視線は机上を見ていた。
ヘクターは目の前に立ったまま。
「あんたそれを俺にまた言うのか。その理由を、戦士の俺に言うのか。わからないとは言わせないぜ、そんな屈辱的な言葉を二度も言うのか!」
「きみが聞いた。だから答えた」
「アンタが言ったんだぜ。オレに〝死ぬな〟と。なあ、今もそう言うんなら、アンタがそれを望むなら――オレを諦めるな、掴み取れ」
「無理だよ」
「言っただろ。オレは、死なねえ。仮に死んだとしても必ず帰ってきてやる」
「……無理だよ」
ジェラールはヘクターを見れなかった。
今彼がどんな顔をしているのか見る勇気がなかった。
失望されたかもしれない、見放されたかもしれない。
今度こそ掬いあげた手の指の間から零れ落としてしまったかもしれない。
「そーかよ」
聞こえた声に肩を震わせる。
まるで幼いころに戻ったようだ。誰かが何かを言う度正解を探して怯えていた幼いころに。
ジェラールは何も変わっていない。
あの頃のまま。
何も言えずうつむいている。
ヘクターがため息をついて踵を返す。
ジェラールは今は、彼を引き留めることが出来なかった。
何を言えばいいのか、全く分からなかった。
†
ヘクターは頭を乱暴にかき混ぜながら湧いて出てくる不快感に唸っていた。
ガツガツと床を蹴って歩く。
「あー、クソ。……だったら証明してやるよ」