第四章 運河要塞
水辺の近くを肌で感じさせる湿った冷たい風の吹く中、運河要塞を目する位置へと陣を張った帝国軍は、騎兵隊、歩兵隊、術士隊、工作部隊を揃え戦の準備を着々と進めていた。
張られた陣の中では様々な声が行き交い土埃が常に上がっている。
休息を取るための天幕、上役用の天幕、下働きたちの詰める場所、炊事場……と必要なものが整えられていった。
ここに揃った軍勢は守りの堅い城門を正面から破り突入するために揃えられたものだ。必然的に大所帯となっている。
そのため運河要塞攻略の軍勢を支える役目を持つ陣は即席の集落のようなものでもあった。
正面からの突破作戦は明日開始が予定されている。
アバロンからの軍勢が全てこの場所に辿り着くのが日が沈む前。
この場で一夜を明かし明日に備えるのだ。
――だが、事態が始めに動くのは、夜である。
†
「オイ、早くしろ!」
声をひそめて、しかし怒鳴るような語調で案内人を名乗る男がヘクターを始めとした傭兵部隊を先導する。
月も隠れる夜の今、運河要塞攻略はひっそりと始まった。まるで夜逃げのような世も憚る様子ではあるが、敵方に悟られぬよう裏口からの侵入を図るのが今回の作戦だ。
だが男の態度にヘクターは舌打ちする。たかだか金で雇われているだけのはずの案内人の居丈高な態度が気に入らない。
「うるせーな、オレに指図するなよ」
「はん! 乗せなくてもいいんだぜ、こっちはよ」
「困るのはどっちだ? 金を取っておきながらとんずらするなら今ここでテメーを斬ってもいいんだぜ」
「ひ!」
ぎらりと月夜にも輝くヘクターの剣の刃をちらつかせると、案内人だという男が悲鳴を上げた。
その様にヘクターは鼻で笑う。そのような反応をするなら始めから大人しく弁えて案内すればいいものを、やけに強気なところにヘクターの不信感はどんどん膨らむ。
「……本当に運河要塞の裏から入れんだろうな?」
「へ、へへ、本当さ。……こっちだ」
だが剣で脅したのは多少効いたようで、びくびくした様子を隠せないまま時々振り返っては剣の位置を確認している。ヘクターがただ剣を腰へと戻そうと柄を掴みなおしただけでも大袈裟なほどに肩を揺らしていたので多少溜飲は下がった。
「さあ、ここから入るぞ」
ガサガサと音を立てて案内人の男が迷いなく突っ込んだ先は、どう見ても木々が鬱蒼と茂り人の歩くことが困難であると一目で分かる森だった。
「こんなとこに道があるのかァ~?」
訝しげな声を立てたのはヘクターの部下である恰幅のいい傭兵の一人だった。
「何をしてるんだ、早くしねェか!」
「あ?」
「ひ! いえ、早くして下さい、この道を知られるわけにはいかないでしょう!」
なかなかやって来ないヘクターたちに痺れを切らしたのか口調が戻っていた案内人の男だったが、ヘクターがひと睨みするとすぐにまた小さくなって縮み上がる。だが急かすことはやめなかった。それほどこの道を知られるのは限らなければいけないと思っている証左である。
態度がつくづく気に入らないが、下手を打って今見つかるわけにはいかない。ヘクターたちの侵入は秘密裏に行わなければいけないのだ。
「仕方ねえ。おい、行くぞ」
今更怖気付くことはない。ヘクターは無遠慮に目の前に張り出す森の枝木に手をかけて、強引に割り開き足を踏み入れた。
ガサガサと葉の擦り合わさる音を立てながらその姿はすぐに森に消えていく。
ヘクターに続き、傭兵たちも足を踏み入れる。その数は、ヘクターを含めたったの十五。その中でも部隊長を分け五名ずつの小部隊三隊での構成である。
極端な少人数での作戦はシンプルで、裏口から侵入し内側から城門の開錠、正面へ集った帝国軍を要塞内に引き入れることが目的だ。
ヘクターが部隊長に選んだのは馴染みの深い傭兵仲間とアンドロマケー、その下に各々連れていく人員を五名ずつ選ばせた。
説明するべくもなく個々の戦闘力は高い。ヘクターの元で生き残ってきたものたちだ。臨機応変の動きと作戦実行を担える力を備えている。
傭兵は……フリーファイターたちは雇われである身だからこそ、その生き様を侮られることがほとんどである。
だからこそ今回の抜擢は一部のものに酷く響いた。
皇帝直々の指名、それもかつての領土を取り戻すための一戦。
戦いが生業であるからこそ、血気盛んなものが多くいるが、ただそれだけでなく各々の矜持を持って戦う彼らにその誇りをこそ重視し指名されたと思ったものも少なくない。
帝国兵士とは一線を画す無頼者集団と取られることの多い彼らが、その身分を一段上げて見られたこととも、今回の抜擢では言えよう。
そういった心持ちのものが今回の作戦に何人か選ばれている。
その士気は高く、誇りに満ちた顔で作戦に臨む。
それ自体は良いことだ。士気が高ければその分普段よりも成果を望める。
だが――。
「浮かない顔だね」
ガサリと音をさせて張り出す枝葉を右手で押さえ身を乗り出したアンドロマケーがヘクターの真横へやってくる。その声はひどく静かだった。
「……まあな」
言葉少なにヘクターは返す。
「アンタ、よくこの作戦に乗ったね」
「ここにいるお前が言ったところで説得力ねえぞ」
「きな臭いからこそ現場に行くんだろ。ヘクター。お前さんもそうじゃないのかい?」
アンドロマケーの言葉にヘクターは黙り込む。それは肯定を返していることと同じだった。
「……船頭と案内人には気をつけとけ」
「おや、お優しい。だがまあそれは分かってるよ。何か仕掛けてくるとしたらあいつらだろうしね」
「何かあれば本隊に戻れ」
「言われずとも」
それだけを交わして、ヘクターは足を早めた。
変わらず森の中を歩き続ける。案内人の男の背中を黙って追いながら、ヘクターたちは暗い森の中を歩いた。
その道のりは決して平坦では無かったが、野戦にも慣れた傭兵たちにとってはある意味で〝普通の道〟だった。――つまりただの獣道であるということだ。
商人風に見える案内人の男がこの道を慣れた様子で歩く姿に疑念が募るが、そんなものは初めからわかっているようなこと。
今更さらに怪しいところが出てきたとして、「だろうな」と頷くことはあっても驚くことはあるまい。
森の終わりにやって来て、案内人の男が立っている。
「ここだ」
ガサガサとまた葉の音をさせて男が森を出ていく。
気配を感じ取りヘクターは剣の柄に指を這わせて一息に躍り出た。
一気に開けた視界。
「ほら、早く乗りな!」
そこへ待っていたのは、夜の闇を吸い込んだようなヴィクトール運河の黒い水面。その手前に石造りの岸辺があり不安定にぷかぷかと浮かぶ小さなボートとそれを操る船頭、それから案内人の男がいるだけだった。
拍子抜けするほどに聞いていた通りの状況だ。
案内人の男が乗り場まで案内を買って出る。その先に移動に使うボートとその船頭がいる。ボートに乗れる最大人数は船頭を除き五名まで。
ヘクターの眉間には皺が寄る。
背後では仲間たちが続々と森を出て来た。
十五名と言えど、岸辺はそこまで大きいわけではない。ただでさえ体の大きな戦士が多い面々だ、若干の窮屈さがあった。
全員が揃ったのを見てとって、ヘクターはまず自分の隊からボートに乗り込むよう指示する。
足を踏み入れたボートはすぐに転覆しそうなほどに不安定であった。
バランスを取りつつ五人が乗り込むと船頭が出発の準備をする。
「隊長、また後であっちで会いましょう!」
「おう」
連れてきた中では一番若い部下に返事をして、ヘクターは船頭に「出せ」と短く指示した。
ボートにはヘクターを含めたたったの五人の傭兵たち、そしてボートを操縦する船頭の六人。それでいっぱいだと目で分かるほどの小ささであった。
ヘクターの声に応えた船頭がボートから足を出し、岸を思い切り蹴る。その反動でボートは運河へと踊りだし、不安になるほど左右に揺れながらゆったりと出発した。
そのゆったりとした速度のままボートは上流へと進んで行く。
バランスを崩せばすぐに転覆しそうな不安定なボートの上、ヘクターは船頭の様子に気を尖らせながら、暗い運河とその先の要塞の入口があるだろう場所を睨んだ。背後では岸に残った後発隊の二部隊がその背を見送っていた。
ボートの縁を片手で握りながら、すでに雲行きの怪しい状態にヘクターの勘が騒いでいる。
ヘクターはこの作戦に初めから納得していなかった。だが最終的にはこうしてこの作戦に赴いている。
「何も起こらなければ良いけどな」
口にしてからそれが難しいことを肌で感じていた。
ギィ、ギィ、と耳障りな船頭の漕ぐボートの櫂(かい)がボートの本体と擦り合って奏でられるの音が耳に馴染んでしまった頃、一行の目に飛び込んできたのは木製の桟橋であった。
「あそこでさァ」
船頭が気の抜けた声でその桟橋が目的地であることを告げた。
そこからは岸辺に上がるために桟橋を目指す動きに変わる。
あからさまに無防備なボートでの移動はいつ襲われてもおかしくはない。そのためにヘクターは警戒を最大に強めていたが、予想に反してボートは無事に運河要塞の裏口へと辿り着く。
ボートは船頭の櫂に従いゆうゆうと桟橋にその本体を付け、船頭がボートから伸ばしたロープを持ってひらりと桟橋へ降り立ち、杭にロープを固定しヘクターたちを降ろした。
ヘクターはくるりと辺りを見回し、閑散としている様子に眉を顰める。
桟橋がかかる石造りの床部分は材質から言って要塞の壁と同等だろう。元は荷下ろしのために広く作ったのか、平坦な床がまっすぐに広がり、その先に要塞内に続くと思われる扉がある。その扉を守る番人が如く、モンスターを模した石像が扉を挟むよう二体で睨みをきかせていた。
だが、その場はあまりにも静かすぎる。
表にはあれだけモンスターをあからさまに配置していたにも関わらず、この裏口には影すら無い。
ヘクターがすぐそのことを感じ取ったのと同じく、同等の戦場を数多く駆けてきた傭兵たちは警戒を強めた。
「こりゃ随分な歓迎だ」
思わず、と言った風情で背の高い傭兵が溢す。だがまだ船頭が目視できる位置にいるというのに不用意な発言は褒められたものではない。そのすぐ後ろにいた恰幅のいい傭兵に思い切り足を踏まれて唸る羽目になっていた。
どう考えてもおかしい。しかし作戦のために後発隊がボートで到着する予定なのだ。どこかで身を潜めるか、探索をするか、今後についての行動を開始しようとした時だった。
「ひ、ひ、ぅわあああ!!」
突如上がった悲鳴にヘクターたちは吸い寄せられるように声のした方向――今降りてきたボートを振り返る。
「おい!」
「何!?」
飛び込んできた光景は、先ほどまで凪いでいたはずの運河の河面(かわも)に渦が巻きおこりボートを飲み込んでいく姿だった。バシャバシャと水を激しく巻き上げ凄まじい速度であっという間にボートと船頭は河に沈んでいく。手を伸ばす暇すらなかった。
「なんっだこりゃあ……!」
ヘクターを先頭に全員で急いで駆け寄り船頭を探すが、影も形も見つけられない。
傭兵たちを嘲笑うかのように河面(かわも)の渦は勝手気ままに蠢いて、ただただ眺めるしか出来ない彼らの目の前でくるくると中心に寄って行き徐々に徐々に小さくなる。
そうしてちゃぷん、と水滴の落ちる音を最後にまた静かになってしまった。
まるでそのボートを飲み込むことが目的だった、と思わせるほど、夜の闇を吸い取ったかのような運河の黒い河面(かわも)はもうすでに凪いでいた。
残っているのは異変の起こる前と同じように下流へ向かってゆったりと流れていく運河の姿。
その場にいる五人は口を噤む。
だが言葉にせずとも全員が感じ取っていた。〝確実におかしいことが起こっている〟と。
ヘクターは忌々しげに舌打ちをする。
もはや疑う余地はない。
「どうやら嵌められたようだな」
このままここで、後発隊を待つ必要は無くなった。たった今、目の前でその後発隊を運ぶはずだったボートは沈んだのだから。
ただでさえ少人数のヘクターたち傭兵部隊を分断し、帰る術を奪いモンスターの巣へと放り込む。
「オレに死んで欲しいやつが実力行使に出たってことか」
びきりびきりとこめかみに青筋が立つ。
(気に食わねえ)
のこのこやってきて騙された自分自身も、ヘクター如きを殺すためにこのような手段に出た者も。裏返せばそれだけヘクターを買っているとも取れるが欠片ほども嬉しく無かった。
そこへのんきにぽん、と軽く男の手が乗る。
「おいヘクター、じゃあ何がなんでも生きて帰らなきゃいけねえなあ!」
がはは、と笑った恰幅のいい男も、しかし目は笑っていなかった。
この場に居るのはヘクターが信用を置けるから選んだ人間ばかりだ。
これまでも幾多の戦場で背を預け、預けられてきた。
そしてまだ、全員が死んでいないから選んだ。
ヘクターだけではない。ここにいる全員で戻らなければ意味がない。
ハ! とヘクターは常と同じに笑う。
「あたりめーだ」
「よし! じゃあ帰ったら酒奢ってくれ」
まずはじめに恰幅のいい傭兵がヘクターに軽口を叩いた。
「おっ! 良いな。俺の分も勿論出してくれるよなあ隊長どの」
そこへ先程不用意な発言をしていた背の高い傭兵が乗っかる。
「ここまで来たんだ、全員の分を出してくれるに決まってるよな、隊長」
ふ、と町の女たちを落とす笑顔で精悍な傭兵が続く。
「じゃ、よろしくなたいちょー」
皆よりも頭二つ分は小さな体躯でにっぱりと無邪気な笑顔を浮かべた顔に傷のある傭兵が飛び上がる。
全員が全員、調子良くヘクターの背を叩いていく。ヘクターは先ほどとは違う意味でこめかみに青筋を立てた。
「気色悪ィ! 今まで一回も隊長なんて呼んだこと無えだろオメーら!」
あと奢らねえぞ、と付け足せば途端に野次が飛ぶ。
「ええ~~! ヘクターお前陛下から直々に褒賞貰ってただろ。おれたちより金持ってるの知ってんだからな」
「そうだそうだー!」
「ここは部下のために太っ腹な所を見せる機会だぜヘクター」
「そうだそうだー!」
「なんっでオメーらにオレが奢らなきゃならねーんだよ! オレの金はオレの金だ、使い方を指図すんな!」
「これからの働きのために褒賞を示すのは上官としての義務だろ。なあ隊長どの?」
大きくため息をつくヘクター。
「あーあー、そーかよ。分かった、これから一番モンスターを倒したやつに好きなだけ奢ってやる!」
帰ったらな、とヘクターが付け足すと、わっと傭兵達は盛り上がる。
「そうこなくちゃな!」
「えっ? ……てことは一等にならなきゃ奢りじゃないってことか?」
「何言ってんだ、勝負だった方が面白いだろうが」
ヘクターは恰幅の良い傭兵を小突く。
「おめーはまたあのうまくもねえ酒を飲むのか?」
戦の後に酒を飲む時、恰幅の良い傭兵はいつも同じ酒を飲む。きちんと舌で転がせば味は良いがそれを打ち消すほど度数がやたら高く、酔いたい人間か昏倒したい人間か酔いたくても酔えない人間が選ぶものの代表格だ。酒に弱い癖にそれを飲んでは毎度潰れる恰幅の良い傭兵は「へっ」とそっぽを向く。
「うるせー、おれはあの酒が好きなんだよ」
「……ま、あの酒を飲まなくて済むように帰ればいーだろ」
返答は無かった。
だがヘクターの肩が一度強く叩かれる。
ヘクターは何も言わず倍の力で叩き返した。
「いってえな、少しは手加減しろよヘクター。――さて。とりあえずの方針は決まったとして……どうするんだ」
恰幅の良い傭兵が咳払いをして仕切り直す。この場では最年長の彼はそうした場の取り仕切りに慣れていた。それにヘクターはすぐ返した。
「決まってんだろ、このまま正面を裏から破ってやるんだよ」
「ま、そう来るだろうな」
「おいおい帰還を優先しねえのか!? 生きて戻るって息巻いてたの誰だよ!?」
「うるせえ静かにしろ」
「もがぁ!」
異を唱えたのは背の高い傭兵だ。大きすぎる声を咎められるよう物理的に手でその口を塞がれる。
「いいか、どうせ向こうはオレらを殺しに来る。しかもこの要塞はモンスターだらけだ。どこを通っても戦闘は避けられねえ。だったら当初の予定通りにやるのが一番良いだろ」
「別の道があるかもしれないだろ?」
「探しながら移動するのか? あったとしてそれが本当に外に繋がっているのか? 情報を持っているか?」
ヘクターが立て続けにそう指摘すると背の高い傭兵がぐぬぬと唸った。だがすぐにぱっと顔を上げ人差し指を黒い運河を指す。
「いや、今来たこの運河を泳いで戻れば」
「オメーさっきの見てなかったのか? ボートはなんで沈んだんだ」
「え? いや、知らねえけど」
はー、とため息をついたのはヘクターだけではない。背の高い傭兵以外の三人も揃ってため息をついていた。
ヘクターは頭をガシガシとかきながら見下ろす。
「そうだ、知らねえんだよ。泳いでる時にあのボートを沈めた渦ができたらどうする? モンスターだったら水中で戦うってのか?」
「あ、そっか」
「あほ」
「間抜けですねえ」
「まだ素直に聞くからマシだな」
「散々じゃねえか!」
「だから確実に出れる正面を目指して内側から開けた方が良いだろ。今は正面に突破用の軍が控えてる。今オレ達の人数で攻略は無理でも引き入れれば勝機は上がる。今の最善だ」
「軍を信用できるか?」
精悍な傭兵が硬い声を出す。
だがそれに被せるよう背の高い傭兵が軽やかに当たり前の事を言うように言う。
「ジェラール様がいるんだ、平気だろ」
「あ?」
ヘクターはその信頼に声を挟む。
背の高い傭兵はしみじみと昔を思い出すよう静かに語る。酒場の一角で呟きをそっとこぼすような風情だった。
「……バレンヌは、いい国だよなァ……俺、好きだぜ、この国が。傭兵を続けてるうちはここで戦い続けたいと思う」
「どうした急に」
「なあ、この作戦が成功すれば陛下は喜ぶよな?」
「まあ」
「そうだろ」
「そのために来てる」
背の高い傭兵以外が肯定を返せば笑顔で「だよな」と背の高い傭兵が言う。
「……陛下には感謝してるんだぜ、おれ」
急にそんなことを言い出した背の高い傭兵は目を伏せて笑った。
「おれ、アバロンに来る前はさあ、誰に雇われてても一緒だって思ってた」
ああ、もちろん金がたくさんもらえるとこ優先な、と前置きをして
「でも陛下は……レオン様は、おれのことを一端の戦士って認めてくれたし、ジェラール様も同じ、おれを戦士として扱ってくれる。ただの戦力じゃない、戦士としての、おれだ」
気がつけば皆が聞き入っていた。
「おれ、それが嬉しかったんだよなあ。だからさあ、陛下の役に立ちたいんだ」
こつん、と背の高い傭兵の後頭部を叩くものがいる。それは戦士の手にしては優しいものだった。
「何を言ってる。そんな当たり前のことを」
恰幅の良い傭兵は悪戯をした子どもを小突くような軽さを持って、わざとらしい呆れを見せて言う。
「そんじゃあ行きますかね。朝までには城門の位置まで侵入して把握しておかなきゃいけませんし」
顔に傷のある傭兵が親指で要塞内へ続くと見える扉を指す。
「ああ。オメーら、最後に装備の確認しとけ。中じゃあゆっくりもしてらんねえ」
ああ、おう、と短く返答があり各々は手元、身の回りを素早く整える。ヘクターも同じだ。
ふと、ヘクターはちらりと後ろを振り返った。空は暗く星がちかちかと瞬いている。月は見えず広がる鬱蒼とした森も流れる川面も黒に近い色に染まり慣れていないものであればそれだけで恐怖を覚えるだろう。その黒の向こう側、残ったアンドロマケーたちを思い出し何かあったとしてもどうにかなるだろうと意識は動いて更にずっとずっと真っ直ぐに行った先――帝国の陣の方向を見た。
思い出すのはひとつだ。
最後に見た顔を思い出して盛大に舌打ちし呟く。
「……ゼッテェ生きて帰って、あのふわふわ鬱陶しい頭をぶっ叩いてやる」
すると肩に腕が回される。
呟いた声を拾ったらしい恰幅の良い傭兵がへっへ、と変に笑ってヘクターに囁いた。
「女か、ヘクター」
すぐに回された腕を抓り上げる。「いってえ!」と騒いだが無視した。
「そんなモンじゃねーよ。――行くぞ!」
「応!」
ひそめた声でヘクターが全員を見回す。
同じよう大声にならぬよう抑えられた是が返され、傭兵たちは心臓の位置、胸の左を拳で叩く。
――この心臓が動く内は、彼らは彼らの矜持でもって剣を取る。
走り出したヘクターを先頭に扉へ向かう一行はバラバラと足音を立てて進んでいく。
やけに静かだ。外と繋がっている扉がある場所だというのに見張りも立っていない。
違和感は一瞬。状況はすぐ動く。
弾かれたように全員が得物を手にした。
モンスターが湧いた。比喩ではなく居なかった場所に突如現れたのだ。
「は! 歓迎されてるぜ!」
「おいおいなんつー数だよ……!」
ヘクターたち五人を取り囲むように現れたモンスターの数はざっと二十。
「突破するぞ、一点で潰せ!」
ヘクターの声を号令に、扉の突破を目指し正面のマンドラゴラを斬り伏せ要塞内に侵入する。
「走れ!」
目の前の進路を邪魔するものだけを狙い、余計な戦闘は避ける。
戦い始めればピリピリと肌を焼く殺気、剣を振るう腕の躍動、中心からせり上がる高揚感が更なる戦いを求める。
だが、今それをしては後が続かないことを思い出し戦闘へ傾く思考をねじ伏せる。まずは部下達を含め無事に陣に戻らなければならない。
要塞内を更に進む。
まだ全体に侵入は周知されていないことは出会ったモンスター達の出会い頭の飛び上がっている姿から想像出来た。角を曲がった先や入り込んだ部屋の内部のモンスターと鉢合わせた時にだけさくさくと倒して進んでいく。
少人数であるからこそ小回りはきく。
ヘクター達が通る道には、倒されたモンスター達の死体と血の跡が点点と残されていた。
「チッ! さすがに騒ぎすぎたなあ」
苛立ちを露わに恰幅のいい傭兵が向かってきていたモンスターを斬り伏せながら叫ぶ。あきらかにモンスターが意思をもって傭兵たちを探し追ってきているのを感じ取れるほどになった。
窮地を切り抜け正面の門を突破するため移動を続けている傭兵たちは迫りくる脅威をなんとか抑え進んでいた。
だが戦闘に次ぐ戦闘で確実に体力は削られている。血の吹き出すような傷には傷薬を使い回復をし避けられる戦闘は避け身を潜められる場所での一時の休息は取るものの、モンスターは前情報の通り溢れるように闊歩しすぐ見つけられ、更には情報が回ったのか探すような素振りをするモンスターが増えたことで見つけられることが増え十分な回復は取れないまま戦闘を続ける羽目になっていた。
「位置的にはもうすぐのはずだ、中庭に出るのは危険だが城壁の内部が全て繋がっているかどうかは分からないから進んだところで袋の鼠になっちまったらどうしようもねえしなあ」
布に即席の地図を作りながら進んでいた顔に傷のある傭兵がヘクターに報告する。
「だとすると正面の突破に合わせて一気に進んで――」
だがその時、ヘクターは見つけてしまう。
近づくモンスターの気配に全員の視線が動いた先にそれは居た。
「あいつ……!?」
それは良く見た姿だった。
何故ここに居るのか分からない。
それはヘクターに常に「ジェラールの側を辞せ」と言い続けている、生真面目な政務官だった。
その男がモンスターに囲まれて移動している。うつむいていて表情は見えない。
普段のヘクターであれば無視した状況だ。
「ヘクター!?」
だがヘクターは走り出した。
「何故ここにいるのか」を吐かせねばならない。この状況でこの場にこの男がいる理由をヘクターは感じ取っている。ろくなことじゃない。
ヘクターはあの生真面目な政務官を信用していない。己に悪意を向けてくる人間を信用しろというのは土台無理がある。
――だが、万が一人質として捕らえられて来たのなら、ジェラールが心を痛めてしまうだろうと思い至ってしまった。
またあの顔をさせる訳にはいかない。
だからヘクターはその場に走る。
足音に気付きモンスターたちはヘクターに向かい走り出し、居なかったはずの場所から湧いてくる。絶えることのないそれはモンスターをどんどん増やしヘクターたち傭兵を取り囲む数に肥大する。
「なんだこの量は!」
「ッくそ!」
剣と剣がぶつかり合い、術が飛びあたりは一気に乱戦にもつれ込んだ。
モンスターのしわがれた断末魔に混じり痛みを叫ぶ声が響く。
生真面目な政務官はうつむいていた顔を上げヘクターを見た。ヘクターも男を見た。
目を見開いた生真面目な政務官は、にたり、と笑った。
†
血溜まりに倒れ伏す仲間たちをヘクターは顧みない。
それをすれば今、ヘクターも同じように転がる骸に成り下がる。
それでは駄目だ。
ヘクターに死ぬことは許されていないし、自分自身でもここで命を散らすことを許せるはずもない。
ヘクターの命はジェラールのためにある。
いま、ここで使いきるためにあるのではないのだから。
今までだって同じだ。
何度そうして共に戦っていたものたちが倒れていくのを見てきたか。
数えることすら馬鹿らしいほどに見送った。
それはヘクターにとっての普通で、日常で、ヘクターの知っている世界というものだった。
それをわざわざ顧みて、わざわざ弔う男を知った。
馬鹿なことをする、と笑うのは簡単だ。
いいや、今でもそうだ、そう思う。
それでも、ヘクターはその男の弔いに同席することにした。
約束をした。
決して反故にできない約束だ。
もう二度と、あのような顔をさせないと――
ごぷ、と口からこぼれ落ちていく塊を見た。
「な……」
がくん、と首が折れるよう胸元を見る。
胸からは刃が見えている。
赤い血に彩られた白刃。ヘクターの命を削っている刃はなお美しく光を反射しきらきらと輝いていた。
背中から刺されたそれはそのままヘクターを貫いている。
「が、ぁ」
ズル、ズル、と貫いている白刃が背中側に引かれていく。一層強く引き抜かれたあと、一気に血が噴き出した。
ぐるん、と視界が回り、ヘクターの体は石畳の上に強かに打ち付けられる。
ど、ど、ど、と心臓の音が直近で聞こえる。
その音に合わせて体から何かが抜けていく。
それはヘクターの命の残滓。
赤い赤い血が、その身から流れていく。
急激な寒さを感じて、ヘクターは意図せず体をぶるりと震わせた。
命の危機に頭の芯が冷えているが体は全く言うことをきかない。指一本動かすことすらままならない。
ぜ、ぜ、と聞き苦しい喘鳴が響く。
徐々に徐々に瞼は降りて、抗いがたい眠気がヘクターを襲っていた。
「ああ全く、殺すなと言っておいたのに」
ヘクターの耳に聞いたことがあるような、無いような、男の声が響いた。
目を閉じきる間際に見えたのは、場違いな青とまっさらな白の服の裾。
それは帝国政務官の制服を示す色だった。
「やはり下等なモンスターではこんな単純な命令も覚えられぬということか……ボクオーン様とは大違いだ」