おとぎ話のそのあとで、
不思議な風が頬をするんと撫でていく。
すっかりと様変わりした場所に目をみはる。
以前見た時はそのような片鱗が無かったのに、立派に育ったひとつの大樹を頭巾の中から見上げてその姿に思わず息を止めた。
この場所がこの街のシンボルになっていると頷ける佇まいに言葉を失う。大樹の持つ神聖さに心を奪われたように。
しばらくはそのまま遠くから眺めていたが、本来の目的を思い出して歩みを再開する。
変わった景色を楽しみながら、首を巡らせつつゆっくりと歩む。
まだ待ち合わせには早いだろうか。
ぱっと見たところ相手の姿はない。
久しぶりに早まる胸の鼓動に気づいて手を当て、ふっと笑みが溢れてしまった。
石畳の敷き詰められた道が橋へと差し掛かる。
広がった泉は円形に整備され、橋も渡り様々な景色を楽しめる。
ふと振り向けば宮殿の姿も見え、懐かしさに目を細めた。
目に入るもの全てが新鮮だが、大きくは変わらない姿もあってそれを見つけると安堵する。
ここは知っている場所なのだときちんとわかることが、こんなにも安心を呼び込むとは知らなかった。
と、前方で何かが動いたのを捉える。
顔を上げる。
大樹の根元、ひとりの姿。
変わらぬ顔、変わらぬ表情。
彼が片手を上げてこちらを見ている。
確かめるように一歩前へ歩き出す。
また一歩、一歩とどんどんとその足は速度を増していく。
彼とのあいだに距離があることがもどかしい。
もっと早く走れればいいのに。
けれども息も上がらずにただ走り抜ける最中鬱陶しい頭巾を思い切り払った。
もう隠すことはない。
待ち人を見つけたのだから。
風の音が耳を通り過ぎて夜と朝の狭間の中で顔をあらわにしたジェラールは愛おしい腕の中に思い切り飛び込んだ。
遅れて心臓の音が身体の中心から響いてくる。
しっかりと触れた肌、己の背中に回る逞しい腕の力も懐かしい。
離れていた時間は短いとも、長いとも言える。
けれども今また再びの機会を得て胸を満たす思いはあたたかで甘い。
頭を彼の胸に預けて久方ぶりに鼻をくすぐる男の匂いにひとつ、またひとつと存在を確かめているとつむじに落ちてくる声に顔を上げる。
はらはらと勝手に出ていく涙に濡れた顔をヘクターは笑う。
ボサボサの髪の毛の合間、変わらぬ盾眼鏡の向こうと素の瞳、合わせてふたつで一揃いの目元にいたずらに見つめられて、名前を呼ばれた。
上向かされた手に頭を預けて導かれるまま唇を合わせる。
熱くて、甘やかで、やっぱり少しカサついている唇がこの上なく愛おしい。
今この時、ジェラールは鎧を解いた姿で、柔らかな布に包まれた平服のままただヘクターの腕に抱かれる。
彼の名前を呼ぶ。
応えがある。
それだけで、もう、ジェラールには十分だった。

ざわり、風に髪が煽られる。
誘われて、ぱち、と目を覚ますと強い太陽の光に目を細めた。
長い間眠っていたような気がする。
両腕を頭の後ろに組み枕にしていたヘクターは背を預けていた幹から起き上がり、樹の枝に腰かけたまま辺りを見回した。
待ち人は未だ来ず、ただ樹が風に吹かれるままざわめいているだけだ。
ふと眼下に子供がヘクターを見上げているのを見た。
途端、こちらを指さし喚いているが子供の声は実に耳障りで無視してもう一度幹に背を預け眠る体勢を取る。
目を閉じる。
それだけで世界は閉ざされていく。
†††
次にヘクターが目を開けたとき、まだ空は夜を示していた。
ヘクターが腰掛ける大樹の太い枝からの景色は暗い空と、空に浮かぶような大樹の枝の先に付く淡く光る果実がぷかりと浮かんでいる様。
思いの外長く寝ていたようで、改めて眼下を見据える。
と、大樹から伸びるまっすぐな橋、その先の石畳の道にひとつの姿が浮かび上がっている。
その姿はゆったりと大樹に向かい歩いてくる。
ふわり、ふわりとその姿を隠す頭巾と長い裾の外套。
だがあたりの様子を興味のまま眺める様子に、あわい記憶が呼び起こされる。
ヘクターは背を預けていた幹から身体を離して枝の表皮を蹴って飛び降りる。
音なく降り立った大樹の根元、地を覆う根、その下まで伸びる地中の根の姿も想起させる立派なでこぼことした根を踏みながら降り立つ。
目が会う。
片手を上げて応えた。
ゆったりと進む足。
それは前方からヘクターの方へとやってくる姿もそうで……いや、もう相手は走り出した。
そうして、ばさり、顔を隠していた頭巾が払われる。
夜と朝の間の空の中、星が落ちてきたような眩しいその姿がはっきりとヘクターの目を射抜く。
灯台のように光り輝くそのひとをただ目指す。
そうでなくとも相手は、ジェラールは、輝く笑顔のまま豊かな、手入れされた艶髪を空に遊ばせてヘクターの広げた腕に飛び込んでくる。
あとは、ただ、抱きしめるだけでいい。
勢いよく腕に抱き留めたジェラールを、ヘクターはびくともせずに受け止めて、徐々に、徐々に伝わる体温に深呼吸をする。
深く息をついたのは久しぶりだった。
それはジェラールも同じようで、ヘクターの胸元、息をつく音を耳が拾う。
つむじを見下ろした。
久しぶりの光景だった。
変わらぬ、光景だった。
だからヘクターは以前と変わらぬ揶揄いを口にして、それから目の前のつむじに向かって名前を呼ぶ。
上がった顔、ばちり、と会った目と目。
涙ごと愛おしい。
そのようなことを思うなど、おかしくておかしくて大声で笑い出したい気分だった。
だがそれよりも前にすることがある。
その存在を確かめるように、ヘクターはジェラールの頬を両手で掬い上げ上向かせると口付けた。
従順なジェラールに気をよくして、角度を変えて二度、三度、重ねる。
どんどんと呼吸が楽になっていく。
唇を離したあと、ジェラールはヘクターの首に顔を凭れてヘクターを呼んだ。
ヘクターはただ応える。
嬉しそうにふふ、と笑う声を聞きながら、未だ抱き合ったままのふたりはそっとその右手と左手を絡ませて、小指を繋ぐ。
いつかの約束をした日と、同じように。

