水面は静かに揺蕩っている。
とぷん、と沈んだ揺らぎの先には過去がある。
遠くて近い約束のはじまりは、ちいさな指切りだった。

たまゆらな約束
ざあざあと風が強く吹いている。
風は木々を揺らし、水面を揺らし、鼓膜を風切り音で満たした。
その中を足音が二人分。
しっとりとした土の上を歩く音は地面に吸い込まれているが、たまにあたる石や砂利が靴音を響かせる。
時折吹く、ことさら強い風に髪の毛を服の裾を煽られながら道というより踏み込まれて出来た歩ける場所という方が正しい比較的平らな所を歩む。
視界の端に己の樺色の髪の毛を映しながら、ジェラールはただ前に進んだ。
はっきりとした目的があるわけではない。
だが今は封鎖している街の一角を視察と称して散歩に出ていた。
その後ろ、護衛としてヘクターが付き従う。
互いに言葉は多くない。
この風で声が通り辛いのだ。それに口を開くと望んでいない空気を口の中に放り込まれるようで落ち着かず、自然と口を閉じていた。
土の踏みしめる音と風の音が二人の耳を支配する。
森の中を歩んでいた二人は開けた視界に息をついた。目の前には輪の形をした泉。
どうしてその形をしているのかはジェラールには分からないが、地下からの水が湧き出ているのかそう水量は多くない。だが少なくもなく、アバロンの街の一角とは言え、動物たちが集まる場所でもあるだろう。今はジェラールたちがいるからかその姿はないが、ふと見れば足跡がそこここに残って存在をひかえめに知らせていた。
この泉には中央にぷかりと浮かぶように小島があり、おとぎ話の中の世界のような光景が広がっている。
度胸試しをする子供が飛んで渡れるかどうか、というほどの距離をもつ小島と泉と森の狭間。
その景色を一望する真ん中の樹に、ジェラールは背中を預けた。
すう、と吸い込む森の清廉な空気はその身を浄化するかのような清らかさを持っている。
瞼を閉じる。
すると顔のすぐ横に気配。
睫毛を震えさせながら、瞼のうらに隠していた宝玉のような瞳を現わせば、気配の通り髪の毛が触れ合うくらいに近く、ヘクターがいる。
瞬きの間、閉じられた目元と傾く顔を認めて、ふ、と微笑みながら同じよう瞼を閉じた。
彼の呼吸を聞きながら、先ほどよりも近づく温度。
訪れを予感してとくんとくんと甘やかに鼓動する心臓。
けれど予想に反してすっと体温は遠ざかる。
思わず開けた目で見たのはヘクターの近づく顔ではなく樹の幹に押し付けられる黒革に覆われた戦士の手。
あ、と、吐息とも、声とも言える音がジェラールの口からこぼれると同時、幹の表皮を削った黒革の指先が勢いよく離れ、次いで走る足音、踏み込み、飛んだ先に体重の分削った土の匂いと音。
あっという間にヘクターはジェラールのもとを去り、泉を飛び越えて小島の上で愉快そうにジェラールを呼ぶ。
度胸試しを成功させた子供のようなその姿。そのままジェラールを揶揄って、一瞬で甘やかな空気を霧散させた男は、けれど。
眉間に皺を寄せたジェラールがヘクターを睨むと、すう、と右手が差し出される。
今までの揶揄う声が嘘のよう。
低い、穏やかな声が再度ジェラールを呼ぶ。
先ほどとは真逆の声で、目で、表情で。
だからこそずるい、とジェラールは思う。
気まぐれな猫のように翻弄して、だというのに憎めない。
結局のところジェラールはその手を拒めない。
いいや、むしろ進んで取りたいとすら思う。
証拠に今、ジェラールはほんの一瞬でも躊躇をしなかった。
駆け出した足、伸ばされた手を取ろうとそのまま地を蹴る。
空中を舞う中、取られた手に導かれ、引き寄せられ、思い切りヘクターの胸元に鼻から飛びこまされた。
思わず立てた声はとても間の抜けた声で、羞恥心が上がったと同時、ジェラールの目の前でヘクターは遠慮せずに大口を開けて笑う。
空に向かった笑い声は天を衝くかのようだった。
あんまりにも思い切り笑うものだから、ジェラールは面白くない。
そのまま不満を口にすれば、またヘクターはジェラールを揶揄うように諭してくる。
こんな時ばかり年上のような振る舞いをする彼をジェラールはあまり好きではない。
埋められないものを自覚させられるようで。
けれどジェラールはこの時間が嫌いではない。
ジェラールはこの時皇帝ではなくなる。
それを望んではいけないのに。
楽しい時間のはずが、不意に現実がやってくる。
望んでいるもの、望まざるもの。
決めたはずのものがうまく用意した箱に収まらず、ジェラールは声を途切れさせた。
視線は自然と下へと落ちる。
その時、繋がれたままの手が引き寄せられる。
目を見開いたジェラールは、その驚きのまま目の前の男に抱きしめられた。
これまでとまた違う声で名を呼ばれる。
落ちてくる声は、どこまでも、どこまでも、静かだ。
ざあああ、と一層強く風が吹く。
二人の声は風にさえぎられ聞こえない。
けれど抱き合ったままの二人はそれぞれにしか聞こえぬ声をその耳に寄せて囁く。
だらりと垂れた二人の右手と左手が指を絡める。
二人だけしか知らぬ、指切りを交わして。
その約束が果たされるときは数多の夜と朝が訪れて、幾千幾万の星が空を通り過ぎたころ。
姿を変えた変わらぬ場所で、魂は触れ合う。
今はまだそれまでの、たまゆらな約束。
了
